「詠わない」ことの行為論
この記事について
第39回現代短歌評論賞(令和3年)に応募した評論の全文を公開するものです。
第39回現代短歌評論賞について
- 受賞作:小野田光「SNS時代の私性とリアリズム」(「短歌研究」2021年10月号掲載予定)
- 選考委員:篠弘・三枝昻之・今井恵子・谷岡亜紀・寺井龍哉
- 課題:「私性再論」(2021年の視点で、短歌における「私性」について、自由に論じてください。「短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の、ただ一人だけの人の顔が見えるということ」(岡井隆)と定義されたこともありました。短歌の「私」とは何か、どう考えるべきなのか、新たな視点からの考察を期待します。)
応募作要旨
小峰さちこ「「詠わない」ことの行為論」として、以下の要旨とともに応募した。
本論では、笹井宏之『えーえんとくちから』(ちくま文庫、2019)巻末解説の内容を批判的に検討する。穂村弘のこの文章のように「私性」の機能を重要視しない論は少なくないが、「私性」の機能が損なわれた場合にどのようなことが起こるかの検討は管見のかぎり不十分である。本論は、短歌における〈私〉が完全に透明化した世界では、私たちの想定する〈人間性〉に由来する諸概念が根こそぎ消滅するため、「優しい」のような他者の行為について評する語彙が失われることを論じる。
「詠わない」ことの行為論
(一)
ちくま文庫から再刊された笹井宏之『えーえんとくちから』に寄せて、穂村弘が解説を書いている。
笹井の短歌について「独特の優しさと不思議な透明感がある」と評する穂村は、「ただ一人の〈私〉を起点として世界を見ることを最大の特徴としてきた」近代短歌と対比するとき、笹井作品には「あなたや樹や手紙や風や自転車やまくらや海」といった事物が必ずしも〈私〉と対置されないような独特の世界観があることを見出し、これを「魂の価値の等価性」と呼んでいる。穂村はそこに「他者を傷つけることの懸命の回避」を読みとり、そうした態度を笹井作品が示してみせた短歌の可能性のひとつと見なしている。
現代の歌人は「私性」という枠組みを少なからず疎んでいるように思われる。「私性」という概念は、テキストに垣間見える〈私〉をただひとりの人物像に否応なく結びつけるくびきや枷のようなものと見なされがちだ。こうした現状にあって、〈私〉の立っている地点からこそ語りうるものごとについて、あえて「詠わない」ことの意義を積極的に見出そうとする論は少なくない。
透明な〈私〉というモチーフは、「大きな物語」の終わりとそれに代わる「小さな物語」の台頭といったそれ自体社会を捉えるための物語のなかで、すでにたびたび用いられてきた認知フレームである。笹井の短歌についても、穂村の意識のなかでは、主体が〈私〉だからこそ語りうることを「詠わない」作品のひとつと位置づけられているらしい。そして、そうした語り口の出現は、いわゆる新自由主義的な個人をベースとした世界観の行き詰まりと関連づけられて説明される。
我々が生きている現代は、獲得したばかりの〈私〉を謳歌する晶子や茂吉の時代とは違う。種としての人類が異なる段階に入っているのだ。人間による他の生物の支配、多数者による少数者の差別、男性による女性の抑圧など、強者のエゴによって世界に大きなダメージを与えている。それは何とも交換不可能なただ一人の〈私〉こそが大切だという、かつては自明と思えた感覚がどこまでも増幅された結果とは云えないか。
もっとも、穂村のこのあたりの主張はいかにも言葉足らずであり、その言わんとするところを把握しづらい。本論の関心は、穂村が主張したかっただろう内容について、その行間を埋めながら検討することにある。
だが、透明な〈私〉というモチーフを扱う議論の直近での動向や、それ以前にそもそも「私性」がどのようなものとして扱われてきたかといった経緯について、本論で網羅的に整理するようなことはしない。そうした資料のとりまとめは手間を要するわりに退屈だろうし、短歌における〈私〉について「新たな視点からの考察を期待する」というこの公募の性格上、そちらに紙幅を割いていたのでは十分な論を展開できないからだ。
みんなさかな、みんな責任感、みんな再結成されたバンドのドラム
(p.119)
穂村は笹井のこの一首を取りあげて、この世界には「『みんな』がいて〈私〉がいない」と指摘する。そうして繰り広げられているのは、ようするに、こういう世界観で行くのもありなんじゃないかというスタンスの主張にほかならない。「独特の優しさと不思議な透明感がある」という肯定的なニュアンスと結びつく印象だけ語っているというのは事実としてそういうことだろう。
しかし、あらゆる〈私〉が「みんな」の内部に包摂され、「さかな」であることも「バンドのドラム」であることも等価とされるような世界とは、本当に私たちが望むに値する世界なのだろうか。
たとえば、人それぞれの目的に応じて、さまざまな透明度の〈私〉が表現・解釈される余地が確保されるべきことと、私たちの語りだす一人ひとりの〈私〉たちが等しく限りなく透明な存在に近づいていくべきこととは、志向している世界の道行きからしてまったく異なっている。後者のような主張は、個人をベースとした世界観からの反動だとしても過剰なものであるに違いない。そちら側を目指して大丈夫なのか判断するためには、少なくとも、魂の価値が等価になった果ての世界にいったい何が残されるのか(そこでは何が失われているのか)をあらかじめ見積もっておく必要がある。
(二)
率直に言って、穂村が指摘する「魂の価値の等価性」という言い方はさほど上手い表現でない。別の箇所では「『さかな』と『わたし』の運命の等価性」という言い方もされているが、いずれにしろ、互いに異なるはずの事物が等価であるということの内実がそもそもイメージしづらい。
従来の短歌の枠組みの中で見れば、それらは時に比喩であり、擬人化であり、アニミズムであり、成り代わりであり、夢であり、輪廻転生であるのかもしれない。だが、そう思って読もうとすると、どこか感触が違う。表面的にどのように見えようとも、笹井ワールドの底を流れている感覚はいつも同じというか、さまざまな技法というよりもただ一つの原則めいた何かを感じる。敢えて言語化するなら、それは魂の価値の等価性といったものだ。
このわかりにくさの根底にあるものは何か。あるいは、いったいどのような要素が、笹井作品において〈私〉とその他の事物の価値が等価であるように思わせているのか。
穂村が用いていないことばを補うとすれば、それは、笹井の作品世界のなかにあまねく充ち満ちている〈人間性〉にほかならない。
笹井の独特な感覚は、どうやら世界を構成するあらゆる対象について、〈私〉にそなわっているのとほとんど同等な〈人間性〉を付与している。これが〈私〉とその他の事物との魂の価値を等価に思わせているカラクリであり、この点をおさえなければ、私たちは笹井が遺した作品を十全に捉えることができない。
ゆるせないタイプは〈なわばしご〉だと分かっている でてこい、なわばしご
流星が尾をふる音がきこえます ゆりかもめ、そちらはどうですか
(p.57, 89)
笹井作品にはしばしばこうした〈語りかけ〉の歌があらわれる。それらの対象は「あなた」や「君」のような人間と思われる存在ばかりに限定されない。人間以外の生物はもちろんのこと、むしろ無生物に対するもののほうが多いくらいにも感じられる。
ふつうの現代人の感覚では、人間以外の存在に対して、人間である〈私〉が語りかけるということはある種の見立てをともなうものだろう。穂村の言い方に倣うならば、そこでは「擬人化」のようなレトリックが前提される。つまり、なわばしごに対して「でてこい、なわばしご」と口にしたり、ゆりかもめに向かって「そちらはどうですか」と尋ねたりすることは、結局のところ、詩的世界のなかだから実現しうるおこないなのであって、実際に多くの読者は「なわばしごを本気で挑発しはじめる人間などフィクションの世界にしかいないだろう」と考えるものではないだろうか。
しかし、少なくとも笹井作品に描かれる世界の内側では、あらゆる事物がすでに〈人間性〉をそなえた存在であるため、そういったことが徹底して自然なおこないとして実現されている。このように捉えるとき、穂村がこうした世界観を念頭におきながら、「他者を傷つけることの懸命の回避」ということを指摘したのはいささか迂闊だったかもしれない。
なるほど、〈私〉を含むあらゆる事物が〈私〉と同等な〈人間性〉をそなえた世界では、〈私〉に属する〈人間性〉は特別なものでない。けれども、あらゆる事物が〈人間性〉をそなえた世界だって、他者への加害が起こる可能性があらかじめ排除されているわけではないだろう。むしろ、状況はまったく逆であり、あらゆる事物が〈人間性〉を獲得しているということは、あらゆる事物が〈私〉のごとく意志に目覚めて、次の瞬間には〈私〉を加害しはじめる可能性がいたるところに潜んでいるに違いないはずだからだ。
さかなをたべる さかなの一生を、ざむざむとむしる さかなは死体のように 横たわっている
(中略)
さかなよ まだ焼かれて間もないさかなよ わたしは舌をやけどしながらも おまえをたべる
二〇〇八年初春の投網が あすのわたしを待ち受けているかもしれないのだから
(笹井宏之「再会」より)
こういう詩を引用しながら、穂村が「『さかな』と『わたし』の運命の等価性」について指摘するのは、つまり、笹井作品の内部にはそのような一寸先は闇の世界が広がっているからにほかならない。つまるところ、あの世界の内側でも加害はあたりまえに繰り広げられる。残酷なことに、それこそが魂の価値が等価になった果ての世界にあって残されているもののひとつなのだが、本論が射程に収めようとする笹井作品の「透明さ」を正しく評するには、この段階では、まだ語彙の準備が足りない。
(三)
ところで、私には、笹井作品の描きだす世界がSF小説の想像するはるか遠い異星の理想郷めいて見えている。その雰囲気は確かに「透明」と形容できるもので、私の感性が受けとる印象のかぎりでも、きれいに澄みきってよどみない。穂村もまた、この見渡すかぎり「透明」な世界に息づく主体の姿をまなざして、「独特の優しさ」ということを感じとったのだろう。
しかし、実を言うと、笹井作品に描かれる主体の姿からあまり考えなしに「優しさ」を感じとることには、すでに無視しがたい矛盾が潜んでいる。というのも、あらゆる事物に〈人間性〉が付与された世界の内側では、私たちの素朴な感覚が想像しうる〈人間らしい〉実践のもつ意義はすっかり蒸発してしまうため、人間的な「優しさ」なる概念は根本的に構成しえないはずなのである。
このパラドキシカルな状況は、穂村が言うところの「種としての人類」のエゴ(自意識)の成り立ちに由来している。そもそも、現代社会において〈人間らしい〉実践のもつ意義とは、まず何をおいても、それが行為者の意志の反映であるという事実認識を基盤としている。これを前提としたうえで、〈人間らしい〉実践のおよそ倫理的な側面の多くは、そうして行為することを通じて達成されるべき〈目的〉をあえて他者と共にすることのなかから発生するように構成されている。
ここで述べている要約は、〈人間性〉とは本来的にかくあるべきはずだといった規範論の話ではなく、現代の社会のなかにあって〈人間性〉というものが現にそのような概念として通用してきたらしいという概念分析的な説明である点に注意してもらいたい。とりわけ近代以降の人類史は、こうした〈人間性〉をともかくも尊いものとして据え置くことによって、私たちが種としてもつに値する意志の方向性をある程度動機づけながら、個体レベルで意志しうることの幅を拡張し続けてきた「強者のエゴ」の歴史だった。
一方で、現在にいたるまでの実証研究の成果のなかには、これまで私たち人類にあたりまえにそなわっているものと考えられてきた「自由意志」が素朴な意味で実在することを傍証しないものが少なくない。この点は、先の評論賞作品においても言及されたとおりであり、人間は自らの意志で自分自身をコントロールできる存在であって、それゆえに自らがなしえた行為について責任を負うべきはずだという人間観は修正を迫られつつある。
こうした認識をもって立ち帰るとき、笹井作品に描かれる「透明」な世界は、ひどく空虚なパースペクティブのもとにひらけてくる。そこには、あらゆる事物がすでに〈人間性〉をともなって存在していた。したがって、そこでは、あらゆる事物が〈私〉のごとく意志をもつだろう。けれども、あの世界に息づく主体の背後には、彼とあえて〈目的〉を共にしうるような他者などけっしてあらわれないだろう予感が、永遠に解かれない呪いのごとくつきまとっている。
もちろん、『えーえんとくちから』のなかには、あるいは人間かもしれないと判断できそうな存在も登場する。
「すばらしい天気なものでスウェーデンあたりのひとになってます。父」
「いま辞書とふかい関係にあるからしばらくそっとしておいて。母」
(p.37)
けれど、同書に収められた作品はこうした現代詩的な内容のものがほとんどであり、ここに挙げた短歌も、ことばとしての意味はわかるものの、どこか要領をえない。もっとも、日本語としてまったく見慣れない語彙があるわけではないし、文法的に不自然な箇所があるわけでもないので、多くの日本語話者はその意味を正しく理解できることだろう。だが、これらの発話が意味をなすような具体的状況を想像するのは、おそらく不可能であるに違いない。
発話にことばとして意味があることと、その発話が意味をなすこととのあいだには隔たりがある。後者が成立するためには、発話の主体とそれを聞き届ける他者とのあいだで、コミュニケーションにかかる〈目的〉を共にしうる必要があるからだ。だが、笹井作品にあらわれる発話の多くは、無意味でこそないけれども、傍目には〈目的〉などいっさいともなわなそうな、ナンセンスなものばかりに見受けられる。
「とてつもないけしごむかすの洪水が来るぞ 愛が消されたらしい」
(p.120)
「けしごむかすの洪水」とはいったい何なのか。それが「来る」ことと「愛が消された」ことのあいだにここでどのような関係があるのか。これらは確かに〈語りかけ〉に見えるものの、笹井の作品世界における論理形式を自らのものとして共有し、「だからなんなのか」を理解できる者とのあいだでなければ、けっして意味をなすことはない。さらに踏みこんで言えば、笹井の作品世界には、個体のあいだで何らかの意味をなすような共通の論理形式なるものははじめから存在しないのではないか。
実際、読者から見えるかぎりにおいて辛うじて意味をなすような表現を担う者は、鉤括弧に括られない歌を詠っている主体だけである。その世界に生まれくるナンセンスなことばは、言語というより異言と呼ぶにふさわしい。それらは声として放たれたきり、宙に浮いたまま、何かの文脈に回収されるということもない。笹井の作品世界のなかの〈語りかけ〉は、どのような内容であれ、ただうつくしい声として鳴り渡るばかりで、歌としてはいっこうに意味をなさないのである。
だとすれば、こういった〈語りかけ〉の背後にあるものは、他者に対する倫理的な態度――思いやりや優しさなどではありえない。そもそもの話、あらゆることばがナンセンスにしかなりえない世界では、実際になされる言語表現について「優しい」とか「残酷だ」とかいった評価を語ることは不可能だろう。むしろ、そこでは言語表現を含むあらゆる行為が、たまたまその個体によってなされたりなされなかったりするに過ぎない現象として理解されるはずである。現実世界の「ゆりかもめ」や「なわばしご」が、他者の「優しさ」に心打たれたり、加害の「残酷さ」に打ちひしがれたりはしないように、そこではあらゆる事態がたかだかそういう自然のありさまとして認識されるほかない。
私たちは、笹井の作品世界に息づく主体を作品世界の外部から眺めていられるために、彼の「優しさ」について語りうる。一方で、私たちと同じようなやり方で、他者の行為に対して倫理的な認識をもちうる者は、あの世界の内部には存在しない。これはなぜか。笹井は作品世界を構成するあらゆる事物に〈人間性〉を付与したのだったが、行為者が〈私〉以外の個体と意志ならぬ〈目的〉を共にしうるためには、本来、それが可能な程度のはたらきをそなえた人間的な「心」が前提されなければならないからだ。しかし、笹井の思想はともかくも、過去から未来にわたってなされる行為の〈目的〉について表象できる言語をもち、かつ、それについて言語化しながら考えをめぐらせる「心」をもつ存在は、どうやら人類をおいてほかにいない。
笹井作品における〈人間性〉は、これをあらゆる事物に行き渡らせるために、人間的な「心」を前提しなくてもかまわないような、ある意味で不完全な内容のものへと置き換えられている。だからこそ、笹井の作品世界は擬似的な〈人間性〉で満たされた理想郷のように見えていたのだが、そこにはいわゆる〈人間らしい〉存在、本来の意味で人間的な「心」ある他者がいない。皮肉なことに、まさにこの状況が、私たち読者に痛いような切なさを覚えさせる、主体の孤独な佇まいを際立たせている。
人間になれますように 廃駅のいたるところで雨、ひかりだす
(p.86)
陳腐な言い方だが、人間はひとりでは人間でいられない。「人間になれますように」という、〈私〉の願いとも〈私〉以外の他者のための祈りともつかないこのことばは、そこが見渡すかぎり透明な世界だからこそ、かえって切実な意味を帯びている。だがそれは、そこが見渡すかぎり透明な世界であるがゆえに、〈私〉の歌として意味をなすためにはあまりに脆い。〈私〉たちが等しく透明な存在と化した世界では、詠われる歌の声は例外なく、たちまち世界のなかに溶けきってしまい、風景と区別しえないものとなって遠ざかる。
かんぺきなかたちのひとをみつけても遠い島だとわりきってやる
(p.67)
魂の価値が等価である世界、「さかな」であることも「バンドのドラム」であることも等価である世界とは、〈私〉たちが意志をもってなしうる行為のすべてが立ちどころに現象に成り変わり、無化される世界である。あらゆるものが交換可能であるということは、つまり、実際に何が選ばれても(また、選ばれなくても)本来的にナンセンスでしかないということだ。そこでは、〈私〉たちが自らの意志によって代えがたい未来を「選びとる」といった〈人間らしい〉実践のもつ意義は蒸発してしまい、影もかたちもない。
これが、魂の価値が等価になった果ての世界にあって失われているものである。かくして、私たちは、この見渡すかぎり「透明」な世界を正しく見晴るかす地点にまで辿り着いた。だが、ようやく辿り着いたこの場所には、この「透明さ」を正しく評するためにあるべきはずだった語彙がない。
ここは、いったいどこなのだろう。
〈私〉たちは本当に、ここにひらけている、このどうしようもなく澄みきった世界の果てを望んでいたのだろうか。
(四)
表現を何かを伝えようとする行為として捉え、その背後に行為者性をもった主体を透かし見るというのは、たまたま私たちの側の世界だから通用しているルールに過ぎない。私たちはその主体が幻であるという事実をかえって便利に利用することで、無自覚的にせよ、実在しない主体の影を構成することだってできる。つまるところ、多くの歌人が「私性」と呼んできた主体の本来の機能とは、笹井の作品世界でなく、私たちのこの世界で通用してきた〈人間性〉にほかならない。
なぜ、私たちが短歌について考えるうえで「私性」という概念が繰り返し検討されなければならなかったのか。それは、私たちがつくりだす短歌が自然のなかにあってなりゆきのまま湧いてくるようなものとは見なされていないからだ。私たちがことばを表現と認識して対峙するとき、そこにはすでにそれを残した人間の存在が予期されている。だから「私性」に関連する議論は、それを通じて何ごとかを表現する主体や、主体がそれを残した意図、結果として意味していることにともなわれるべき責任といった概念を同時に引き連れてくるのである。
さて、本論が扱った〈人間らしい〉実践の要約は、あくまでも概念分析的な説明であって、規範論ではないという言い方をしていた。望むに値する〈人間性〉という概念は、そのときどきの社会や文化によって相対的なものだ。したがって、私たちがこれから先にも同じような〈人間性〉を理想として採用しなければならない特別な理由はない。
こういう関心から、私たちが本当に望むに値する〈人間性〉概念を模索するような議論は、哲学や倫理学の分野で研究されてきたものである。ここではその一例として、戸田山和久『哲学入門』(ちくま新書、2014)からその一部を引用しよう。
エージェントが言語コミュニケーションに参入し、そこで「責任をとる実践」に参加しながら物語的自己を構成することで自己を拡張する。デネットは、これが人間らしい自由、道徳的に重要な自由のルーツだとしている。でもこれって、最も高次の人間的自由に関しては、言語コミュニケーションとか社会的構築の産物だと言っているように見える。もちろん、言語のないころからの進化的基盤の上に成り立っているわけだけど。だとすると、人間的自由は、役に立つフィクションだ、本当はないんだけどわれわれの社会を成り立たせている共同幻想だ、という立場に限りなく近づいてしまっているんじゃないだろうか。
(戸田山 2014, pp.368-370)
戸田山のこの指摘はもっともなものだ。私たちが拘泥する「私性」という概念も、結局のところ、実在する事物の性質だけには還元しきれない共同幻想である。この意味で「私性」は、デネットという哲学者の唱える「錯覚的物語的自己」と似た概念であり、歌人が自分たちの似姿として語りだす〈私〉たちだって、その存在を前提して疑わない人々の実践ありきで成り立っているものでしかない。
しかも、デネットの見解によれば、私たちが行為者として行為の責任を負うことと人間的な「自由意志」をもつことは、いわばひとつのコインの裏表のような関係になっている。つまり、そういう自由と責任を演じるゲームに参入するそのことが、私たちを人並な意志をもって生きる主体としてはじめて立ち上げるということだ。そしてそれは、実際にゲームに過ぎないがゆえに、多くの人々がそうした実践をやらなくなれば、それらに依存していた概念は夢から覚めるように消えてしまうだろう。
一方で、戸田山はペレブームという哲学者の論を紹介しながら、こうした共同幻想がより根本的なレベルから破壊され尽くしたとしても、私たちの自己認識や倫理観にさほどクリティカルな影響は及ばないかもしれないという見方も提示する。このあたりの議論を読んでいると、確かにそうなのかもしれないという予感が湧いてくるのも事実だ。
だから、もしも歌人が本心からこのゲームを下りたいと望むのだとしたら、それをあえて引き止めるに足る理由は見つけられないかもしれない。というより、仮にこのゲームを下りる選択をしたならば、それはもはや人間による選択ならぬ「自然のなりゆき」のようなものになるはずなので、その行く末について一個人の立場から憂慮することは意味をなさないだろう。ただ、このゲームを下りるということが何をもたらすのかは、あらかじめ確認したほうがよいと思う。
自由と責任と道連れになくなってしまうのは、行為の主がもつ、しでかした行為ゆえに「非難に値する(blameworthy)」と「賞賛に値する(praiseworthy)」という性質だ。
(戸田山 2014, p.378)
ここはボールド体で書かれている(そのくせさらっと言われている)箇所だが、少なくとも私には、直観的に受け容れがたい帰結が述べられている。これはすなわち、行為そのものの評価が行為者の評価から完全に切り離されてしまうということを言っているわけだ。
確かに、それは必ずしも悪くない世界かもしれない。ペレブームの考えだと、そういう世界では、人々は他者からの承認や評価にいちいち振り回されることがなくなるため、純粋に「道徳的に正しい」行為がなされることがより強く動機づけられるのだという。しかも、戸田山の紹介するところによれば、あるやり方によって徳倫理的な価値観などはほとんど無傷のまま残されるらしい。もっとも、そのテクニカルな議論の詳細まで検討することは、本論で扱える内容の範囲を超えている。この筋の先行きについての研究は、読者それぞれの課題としてもらいたい。
(五)
以下は、あくまでも私個人として選びとりたいと願う、ひとつの世界の道行きである。
たとえば、ある作品の意味を読み解いたり、その作品の韻律がよいとか語感が好ましいとかいった性質に言及したりするかぎりにおいては、それをどこの誰がいつ書いたとか、それがどんな人物だったとかいった事実認識は不要だろう。誤解のないよう断っておくが、そうした話だけを取りたててする必要性を感じるのだとしたらそうすればよいし、それ自体はとくに責められるべきことでもない。
けれども、そういったこととは異なるレベルの話として、私たちはしばしば、短歌というものを人間だからこそなしえる実践の一部として批評することがある。たとえば、人間としての私たちは、自分が他者を不用意に傷つけたり疎外したりする可能性を加味してもなお、表現することを自らの意志で選びとり、それをほかならない自分の意志で選択したおこないとして引き受けていく余地を有しているものだ。私の(また、おそらく多くの読者の)素朴な言語感覚は、そんな主体の「強さ」について評するための語彙をもっているように思われるのだが、それらの語彙は、世界の「透明さ」をうつくしいと感じるような感性に頼るのでは確保しえない。また、こうした語彙は、一度この世界から完全に失われてしまうと、もう以前と同じやり方では回復できないのである。
現代の歌人は「私性」という枠組みを少なからず疎んでいるように思われる。こうした現状にあって、〈私〉について「詠わない」ことの意義をよく評価しようとする論は少なくない。もしも歌人が字義通り「詠わない」ことを実践したいのだとしたら、短歌として書き残すことをやめてしまえばよい。あるいは、そうして短歌がすっかり歌でなくなってしまったとしても、彼らの声は澄みきった世界のなかで、きっと以前と同じように現象するに違いないのだから。
それでもなお、あの歌人は「さかな」に向かって「わたしはいまから おまえをたべるのだ」と語りかける。〈私〉たちは、いつか加害することになるかもしれない可能性を引き受け、それでも〈私〉はその未来を選びとるのだということを自らの意志で語りうる。
そこにあるべきはずの「優しさ」、そうする意志の「強さ」について評するためには、その背後にはやはり人間がまなざされなければならない。私の感覚は、そんな〈私〉たちの生きる世界をこそ、うつくしいものだと感じる。そして、それがうつくしいものに思われるような世界をできれば支持したいと思う。
引用文献
本文で引用した笹井宏之の短歌・詩と、穂村弘による解説は、笹井宏之『えーえんとくちから』(ちくま文庫、2019)による。
註
応募した元の原稿では、各節の区切りは空行のみだったが、ブログへの掲載にあたって節番号を振った。また、第五節の区切りは元の原稿ではなかったものだが、ここで新たに設けた。
笹井宏之の短歌と戸田山和久『哲学入門』からの引用については、引用箇所のページ番号を新たに付記した。
あとがき
(この記事の公開に寄せてあとがきを書きましたので、あわせて掲載します)
ことばが意味をなさなくなる地点というのは、私たちの生きる現実世界にも、当たり前に存在する。
父が若年性認知症になったのは、私が高校二年生だった冬のことだった。父の認知症は失語をともなうものだったため、父は程なくしてことばを繰る認知能力を失った。父のいる施設に面会に行くたび、母はそれでも父に何かを話しかけ、施設で働いている方たちもやはり父にさまざまな声をかけながら尽くしてくれていたが、私はといえば、彼にとって意味をなすような期待をもてない「ことば」を演じつづなければならないような、何かそういうふうな「ことば」を発しなければいけないらしいことの意義というのを上手く引き受けることができないままだった。嫌な言い方になるが、私の目に映る病床の父は、かつて私の父親だった人間の体を引き継いで生き続けている何か別の生き物だったし、たとえば近所の犬のほうが、まだしも私を私と認識してまなざしてくれる点で、私にとっては余程人間らしい他者のようにさえ思えていた。
しかし、拙論で次のように紹介した「〈目的〉を共にしうることこそが私たちの〈人間性〉の基盤である」という考え方は、ともすれば危険な誤謬に転じるかもしれない思想である。
現代社会において〈人間らしい〉実践のもつ意義とは、まず何をおいても、それが行為者の意志の反映であるという事実認識を基盤としている。これを前提としたうえで、〈人間らしい〉実践のおよそ倫理的な側面の多くは、そうして行為することを通じて達成されるべき〈目的〉をあえて他者と共にすることのなかから発生するように構成されている。
他者と意思疎通をおこなったり〈目的〉を共にしたりすることが困難な人について、「だから人間扱いする必要はないだろう」という考えをもつのでは、いわゆる「植松理論」と変わらない。その人が現にある種の〈人間性〉をそなえていることと、その人を一人の人間と見なして接することができるかはまったく別の問題なのだが、拙論では論の運びの都合上、そのあたりの説明を十分にできていない。だが、この点を混同する考え方は、理屈ではなく正しく間違っているものとして葬られるべき思想である。言うまでもないことだが、読者にも、その点にはよく注意を払ってもらいたい。
短歌の世界の近作でいえば、田中翠香「光射す海」(第66回角川短歌賞)が取り上げたシリアの戦場という場所は、近代短歌の精神そのものである〈私〉個人の立場からの写実や抒情といった「ことばにする」ことの意義が無化される地点の最たるもののひとつだろう。短歌の世界では、極端な「虚構」を描き出した作品がたびたび話題に上るが、そうした「虚構」の作品の少なくないものは、私たちの共同幻想としてひらけているこの平和な日常という「虚構」のなかにあって、私たちが短歌をつくることの意義そのものに対する疑義を突きつけずにいない。
当たり前な現実世界のありようが相対化されるところでは、「虚構」である(「リアル」である)といった事実認識にもとづく評は、たまたまその読者だからもちえただけの認識に依存する読みでしかなく、短歌の文学作品としての一般的な意義と必ずしも直結しないばかりか、その作品がまさにそのような作品として表現された事実が示していることをしばしば取りこぼしてしまう。そもそも、〈私〉たちは短歌にすることによって何をしたいと思っているのか、また、それを〈私〉たちがすることの意義とはいったいどのような事実に存するのかといったことを、作品を読む者の立場からも今一度よく考えてみるべきだと、私は思う。
拙論が扱っている内容のなかに、とくにここ数年になって注目されるようになった目新しい知見はない。戸田山和久『哲学入門』は、私が学生だった当時にすでに大学生協に並べられていた本だし、笹井宏之が26歳で世を去ったのは、私が高二だったころ、短歌になどまだ興味もなかった2009年1月のことである。私がこの文章で書いたことは、私が学生のときから考えていたことを遅ればせながら言語化したような内容で、少なくとも私にとっては、本来なら学生の時分にでも書かれているべきはずだったものにすぎない。
父は、私がこの文章を書き進めていた最中、2020年12月に亡くなった。自分の仕事の遅さには辟易してばかりだが、まずはこの文章をこうしてかたちあることばとして、世に出せることを喜びたい。
2021年8月28日、秋田市にて