自己啓発としての短歌

あなたはわたしを読んでいるが、果たして、わたしの言語を理解しているという確信があるだろうか?

J.L.ボルヘス「バベルの図書館」より

はじめに

本論は、短歌における「私性」について考える文章である。しかし、残念ながら(?)本論はいわゆる「短歌評論」ではない。

「私性の文学」などと呼ばれる短歌は(よくも悪くも)事実として、作品を通じた自己表現を主眼としている。営みとしての短歌の主だった目的は、たとえば、巧みな表現を行うための技術の向上という点――そのような自己表現を担いうる〈私〉の実現を目指す、ある種の「自己づくり」にあると言ってよい。

「自己づくり」において重要なことは、その都度ごとに自己を演じることではなく、そうして演じられることが〈私〉の言葉としていわば「板につく」までの過程にほかならない。一般向けの書籍における紹介としては、小野田(2021)が引用している、平野啓一郎の「分人」というアイデアも、概ねこのような意識を踏襲したものであるように見える。

分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人、両親との分人、職場で分人、趣味の仲間との分人、……それらは、必ずしも同じではない。

分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。

(平野, 2012、小野田, 2021 : 72 から孫引き)

しかし、自己論の分野からの「分人」やキャラ化といった概念の援用の多くは、単に「現代人の個性には多面性がある」というくらいの話と見なされがちだ。そのせいもあって、キャラクタと呼ばれる多様な役割の様式が、〈私〉によって繰り返し演じられることを通じて、いわば「虚構」から本当のことへと変わっていく経時的過程に対する観点については、あまり考慮されていないことが少なくない。

本論の主な関心は、短歌作品のテキストそのものではなく、短歌を取り巻く言説が、営みとしての短歌のあり方をどのように形成しているか検討することにある。そこで本論では、短歌の入門書的な一冊として穂村弘(2000)『短歌という爆弾』などを念頭に、短歌を取り巻く「自己づくり」の言説について考察する。

「最高の爆弾作りをめざして」と題された序文からはじまる『短歌という爆弾』は、周知の通り、短歌を作ること(「短歌という爆弾」づくり)を勧める指南書だといえる。もっとも、その語り口については、どこか自己啓発書のような印象が感じられなくもない。

絶望的に重くて堅い世界の扉をひらく鍵、あるいは呪文、いっそのこと扉ごと吹っ飛ばしてしまうような爆弾がどこかにないだろうか。

(穂村弘, 2000 ページ番号は控えるのを忘れたので未詳

このように序文から「鍵」「呪文」「爆弾」になぞらえられる「短歌」というメディアに対する期待の内実は、いかにもゼロ年代的な、〈私〉が生きる意味を賦活しうる〈物語〉への憧憬と呼応しているように思われる。

元来、キャラ化という用語の要点は、私たちの〈生き方〉が任意のキャラクタと結び付けられ、そのキャラクタが生きるべき典型的な〈物語〉へと還元されてしまっている現代社会の状況を言い表そうとしたものだろう。あえて気どった言い方をするならば、キャラ化というのは、正しく私化されてしかるべきはずの〈私性〉が〈私〉から疎外されているという事態であり、たとえば平野が唱える「分人化」などはその事態を乗り越えるために差し出されている一つの処方箋にほかならない。

つまり、そういった論に通底しているのは、出来あいのキャラクタをその都度着せ替えするように虚構の自己を演出して生きていこうという話なのではない。キャラクタにとって典型的な〈物語〉は、それをほかならない〈私〉の言葉として語りだす「自己づくり」を通じて、この〈私〉の〈私性〉として私化されることを絶えず意図されている。では、短歌を取り巻く言説において暗黙裡に想定されている「自己づくり」とは、どのようなかたちで進められるものなのだろうか。

ゼロ年代批評と人間的な意志の〈物語〉

「ゼロ年代」という批評用語は、もともとサブカル批評で用いられていたものだ。短歌の文脈においても2000年代を中心にとくに活躍した歌人をさしてゼロ年代という言い方をすることがあるが、あれはおそらく単語を借用してきただけのものであり、具体的な短歌作品と本来の文脈における「ゼロ年代」との関連性についてはあまり検討されてこなかったように見える。

当のサブカル批評の文脈では、東浩紀(2001)『動物化するポストモダン』が一連の批評群の嚆矢ともいえるものだろう。この系譜のその他のサブカル批評としては、宇野常寛(2008)『ゼロ年代の想像力』などが思い当たる。『ゼロ年代の想像力』では、はじめに大塚英志の紹介する「大きな物語」に代わる「小さな物語」の台頭という認識が援用され、東が言うところの「大きな非物語」が全面化した社会にあって「島宇宙化」するコミュニティのようすや、「セカイ系」と呼ばれたジャンルの出現と凋落といったことが、すでに相当な分量の紙幅を割いて語られている。

この後にも、前島賢(2010)『セカイ系とは何だったのか』や、宇野常寛(2019)『母性のディストピアⅡ』といった多くの批評が書かれているのだが、それらの文献を事細かに紹介することは、あえて本論でやるべき仕事ではないだろう。

『動物化するポストモダン』が強調していた用語のひとつは「シミュラークル」というものだった。初版当時は、インターネットにおける「ハイパーテキスト」やADVゲームに見られた「マルチエンド」が意味ありげなものとして注目されつつあり、おそらくそれらが必然的にもたらしたものとして、提示された選択肢の中から、人々があるべきはずの「正解」を正しく選びとるということの価値づけが相対的に重視されたという背景があった。それと同時に、同書では「データベース消費」といったキーワードが紹介され、リアリティよりも虚構が大きな役割を担うだろう時代の到来が予見されたのだった。

そんな『動ポモ』から20年余りを経た現在においても、ポストモダン的なヒューマニズムに対する信仰は根本的に変質していない。というより、東がコジェーヴの言を借りて人間的な人間ならざる動物的なオタクと呼びうる人々を描きだした当時から、リベラルが提示しうる目ぼしい処方箋はヒューマニズム一択しかなかった。昨今では、その新たなカウンターパートとして「インセル」や「反出生主義」などがあるのかもしれないが、いずれもいかんせん決定的な転向先とはなりがたい。現代社会のなかで影響力のある人たちは、いまだ根本的なところでヒューマニズムへの信頼を捨て去れないリベラルが大半であり、したがって、彼らの基本戦略は、宇野が述べるところの「決断主義」と決別しえなかった。

事実として、現在にいたるまでサブカル作品のメインストリームにありがちな〈物語〉は、人間が人間として人並みな意志の力によって未来を切り開こうとする、人間的な〈物語〉の変奏の域を出ない。世界観としてはリアルから立ち離れている〈物語〉たちは、まるでハイパーパラメタのファイン・チューニングを探る機械学習モデルのごとく、キャラクタの初期条件や環境設定を少しずつ違えながら、よりよい結末を指し示すために再生産され続けている。それらは、あるいはエンドレスエイトというあのバグった夏にはじまり、スカイ・クロラのような繰り返しながら進行する生に思いを馳せ、ピングドラムという廻転するペンギンの表象を生み落としながら、最近では数多ある異世界転生ラノベにまで派生しているのだろう。

しかし、なぜ〈私〉たちはこうも結末のやり直しを夢見るのだろうか。その手の誤解はいまだ根強いのだが、ゼロ年代を経た〈私〉たちが懲りもせず想像力を働かせているのは、いつか理想の虚構を完成させ、そのなかに逃げ込んで暮らすためなのではない。ヒューマニズムに突き動かされた〈物語〉が指し示そうとするよりよい結末というのは、むしろ、いつかどこかに実在する個人のあるべき〈生き方〉について志向している。

なるほど、サブカルらしい作品の具体的な「物語」には、ときに魔法少女や変身ヒーローが描かれ、宇宙人やエルフといった異種族が登場する。けれども、そういった現実離れした架空の存在のもたらす力が〈物語〉の核心的な鍵となるシーンはむしろ限定的で、とりわけ近年よくある〈物語〉では、わだかまりや課題の解決をもたらすものとは、結局どこまでも人間的な「意志」や「想い」の力でしかなかったりするものだ。実際、主人公の属性や彼らを取りまく世界の状況がどのようなものであるにしても、彼ら自身がもちあわせている人間的な理性はきわめて平凡なものだったりする。最近の流行である「物語」の内部で時間遡行できたり異世界転生できたりといった要素でさえ、所詮はゼロ年代的な想像力の象徴にすぎず、最終的に「意志」や「想い」の力によって代えがたい未来を選び取るという人間臭い〈生き方〉を格別損うようなものではない。

「短歌という爆弾」とは何だったのか

極めて重要な点として、私たちが「大きな非物語」などというときの〈物語〉とは、物語的構造を備えた語りの集合――ナラティブや個人史などと呼ばれるようなものなのではない。この文脈における〈物語〉とは、個人の〈生き方〉について志向している表象のことである。表題の問いにとりあえずこの時点で答えてしまうとすれば、ゼロ年代に夢見られた「短歌という爆弾」とは、〈私〉たちが個人として生きるに値する〈物語〉の謂いだった。穂村の言うような「人生物語」をこのように捉えるとき、注意しておかねばならないのは、ゼロ年代以後に描きだされてきた〈物語〉は、ナラティブや個人史というよりも、むしろ個人の〈生き方〉について志向しているものらしいという点だ。

『短歌という爆弾』が「実存的な読み」といったキーワードを見据えながら、「設置法」のような妙に現実に即した話題にまで言及して展開されるのは、同書が、ただ単に「巧い短歌を作りたい」だけの読者を想定したものではないからである。同書は、あくまでも「短歌という爆弾」を組みあげて炸裂させるという一連の実践が日常世界に含まれる〈生き方〉を勧めるものであり、だから言ってしまえば、具体的な短歌の作り方の指南書というよりは、営みとしての〈短歌〉を中心的テーマとした自己啓発書に仕上げられている。

本邦の自己啓発書について扱っている専門書としては、牧野智和(2015)『日常に侵入する自己啓発』が詳しい。牧野は、大枠としてピエール・ブルデューの理論枠組みを援用しつつ、「感情的ハビトゥス」(イルーズ)といったキーワードを挙げながら、本邦の自己啓発書が望ましい/望ましくないと考えている日常の内実や、読者をそうした認識へと駆り立てる「自己啓発界」の構造的背景などを分析している。

実際の解釈上の観点として提示されているのは、1. 賭金=争点、2. 差異、3. 闘争、4. 界の形成の四点である。

このような自己啓発書における主要な賭金=争点となっているのは、日常生活の見直し(および特定の感情的ハビトゥスの習得)を通した、何らかの目標の実現法である。こうした賭金=争点を設定すること、またそれを追求することは、私たちの日常生活に対して「望ましい/望ましくない」という境界線を新たに引き、現在の自分自身、あるいは周囲の人々との差異化・卓越化を図ろうとすることでもある。

(牧野, 2015 : 46-7)

これはすなわち、たとえば『短歌という爆弾』については、賭金=争点となっているのは「絶望的に重くて堅い世界の扉をひらく鍵、あるいは呪文、いっそのこと扉ごと吹っ飛ばしてしまうような」自分のオリジナルな〈物語〉を紡ぎうる人物になることであり、それを実現する方法としての他の手段との差異というのが、その目標が穂村の勧める「短歌という爆弾」づくりを通じて達成されるということであって……というくらいの分析枠組みである。

本論では、牧野と同様の観点を踏襲しながら『短歌という爆弾』を詳解することはしないが、この枠組みと関連付けるとき、穂村が説く「わがまま」という言葉が改めて大きな意味をもって浮上するものである点をここで指摘しておきたい。

牧野の分析を見るかぎりでも、本邦の自己啓発書の中には、個人にコントロール可能な私的領域を最適化することを奨励するようなサブジャンルがある。それらは典型的には手帳術や片づけ術に見受けられる価値観だが、そのほかにも、たとえば「半径5メートル」といった言い方の中に端的に表されている〈生き方〉でもある(この言い方の初出などについては、以下の記事を参照のこと)。

芳根京子の“生きる”姿から学ぶ社会との繋がり方 『半径5メートル』の題名に込められた思い|Real Sound|リアルサウンド 映画部

地に足を着けたまま立っていられる現実を強調し、それ以外の公的空間を意識の外に措くことによって、いわば〈私〉に働きかけられることで満たされた私的空間を形成する――これは、森田療法などにも見られる実生活上の心がけの一つであり、それ自体は確かに、個人の「ライフハック」とするかぎりにおいて有効なことであるかもしれない。一方で、ここでこうした考え方に注目したいのは、それが、本来社会のなかにあってしかるべきはずの具体的な中間項を描かないまま、主体が世界の命運と一足飛びに接続する〈物語〉を描くことによって、思弁的などと批判された「セカイ系」的な想像力と対をなすものだからだ。

この点は、『日常に侵入する自己啓発』における、自己空間が「聖化」される背景についての考察ともよく符号する。

私的空間の外部、いってみれば「社会」は、自己啓発書のなかに直接描かれることはほとんどない。(……)しかし、そのように外部を捨て置いて自己に専心しようとするとき、また本章で見てきたように、特に外部には言及されないものの私的空間において自己を癒やさねばならないと語られるとき、その「自己」をめぐるまなざしの奥に啓発書が想定する「社会」が透けてみえてはこないだろうか。それは多くの言葉で語るほどのものではなく、自らを悩ませ、傷つけ、汚し、また変えようと努力しても変えることのできない対象としての「社会」という程度にしか表現できないものだが、いずれにせよ、啓発書がまずもって私たちに示しているのは、自分自身の変革や肯定に自らを専心させようとする一方で、その自己が日々関係を切り結ぶはずの「社会」を忌まわしいものとして、あるいは関連のないものとして遠ざけてしまうような、そのような生との対峙の形式なのではないだろうか。

(牧野, 2015 : 267-8)

私たちが私的領域の最適化ばかりに専心するとき、そこにはしばしば、その外部としての公的空間が対置されている。そして、穂村の言う「わがままであれ」ということは、一面的には、牧野がここで念頭においている自己啓発書の言説とよく似ているように思われる。

穂村が「わがまま」という個人の意志の働きについて殊更に強調するのは、おそらく、彼自身にとって働きかけることが可能に思われる「社会的なもの」までの距離の遠さに由来している。『短歌という爆弾』では「実存的な読み」といった妙に現実的なキーワードが掲げられているのに、歌人としての穂村の描きだす世界はリアルから立ち離れ、具体性を欠いた「虚構」に彩られて見えるのは、本節の冒頭で述べたように、穂村が念頭においているような〈物語〉というのが、おそらく〈生き方〉について志向している表象のことだからなのである。

つまり、おそらく穂村の意識の上では、キャラ化されている個々の「物語」が具体的に誰に属するものであるか(その主体がどのようなレベルで「虚構」の存在であるか)は、実は重要なことではない。穂村が言っている「わがままであれ」ということは、彼の勧める〈生き方〉にまつわる「生との対峙の形式」の話なのであって、穂村にとってみれば、他者の考える「わがまま」の内容が、生身の人間としての穂村弘が考える「わがまま」の内容と具体的に一致している必要はない。これが、穂村の「わがままであれ」が自己啓発書の言説と一面的にはよく似ているとした意味であり、読者にそのような「わがまま」な〈生き方〉を示してみせるのは、現実世界に生きる穂村弘当人でなくとも構わないのである。

短歌における〈私〉の〈物語〉と〈生き方〉

「短歌評論」というのは、それがそうと呼ばれるからには、あくまでも具体的な短歌作品を取り上げながら展開されるのが望ましいはずであり、その性質から、よりアカデミックな短歌史的な研究に近いものや、社会批評的なことをやろうとすることは、紙幅の都合上困難である場合も多い。また、短歌では作中主体と作者とが同一視されやすい土壌もあって、〈私〉にまつわる「リアリティ」の不在・現実感のなさと作者が持ちえている認識との関係が混線しがちである点も、短歌作品における主体についての考察を複雑なものにしている。

しかし、こうした〈私〉たちの主体性についての洞察は、もちろん必ずしも未開拓な関心事なのではない。実のところ、「私性」という概念が、歌壇における中心的な潮流のなかにあってどのような問題意識と関連づけられて語られてきたかは、比較的よく整理されている印象がある。

たとえば、井上法子ほか(2015)では、近代短歌以前から前衛短歌運動を経て短歌における〈私〉というものが発見される過程について、次のような語り口で要約されている。

作者と作中主体とを完全に切り離すこと、新たな韻律のルールを作り出したこと、作者の実人生ではなく虚構を詠うこと、詩的な二物衝突などは、前衛短歌の特徴である。和歌から近代短歌への変遷は、まぎれもなく作者と結びつく作中主体である〈私〉という自我の発見によるものであったが、近代短歌を現代短歌たらしめたものが、その自我からの乖離であることはとても興味深いことである。

(井上ほか, 2015 : 179)

井上はまた、前衛短歌以後における反/写実主義という対立について、岡井隆と塚本邦雄・寺山修司らの考える〈レアリスム〉概念の噛み合わなさということを指摘している。一方で、この論の展開は状況の整理としては見通しがよいものの、引用だけを見るかぎり、岡井と塚本・寺山とのあいだの認識の差異が本当に決定的なものであったのかについては疑問が残るところでもある。

所詮、短歌は〈私性〉を脱出しきれない私文学である。などとあきらめたような言い方をする人があるが、こういう無気力な受身の肯定も、他方もまた、短歌に〈私性〉を脱した真に客観的な人間像の表現を期待するオプチミストも、結局、短歌の生理にくらい点においては同罪でしょう。短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです

(岡井, 1962、井上ほか, 2015 : 179-80 から孫引き。傍線は井上による)

井上によれば、寺山はこの岡井の発言に「やや反論するような形で」次のように書いているという。

私の言う「私の拡散と回収」ということが一人称による全体文学のこころみであるということは,岡井隆、小瀬洋喜をふくめて、どうにも正確に伝達され得ていないように思われる。(……)作者は拡散した〈私〉を提出すればよい。あとは読者がそれを回収する、という考え方は、一つの補注を加えて正論となるのである。つまり、その補注というのは、作者の中にある全体像のイメージ、「幻の私像」が存在しているということであって、その全体像のイメージが一首一首の中の私的具象性を持って拡散されてゆく……ということになるのである。私の考えでは、こうした全体像、つまりメタフィジックな「私」を、内部に想像し得ぬままで、拡散させてしまった個人体験、個人のイメージはきわめてバラバラであって、読者には決して回収作業などできないであろう……ということになる。

(寺山, 1963、井上ほか, 2015 : 180 から孫引き。省略と傍線は井上による)

しかし、この部分に見える「一つの補注を加えて正論となる」という言い方は、実質的には岡井と同じように、〈私〉というものが、結局はかたちを備えたものとして「回収」されるべきことを念頭に置いたものだろう。ようするに、これらの引用に見えているのは現象としての〈私〉に対する視座の異なりなのであって、これをもって両者の考えに本質的な対立があったとするには、論拠として弱いように思われる。

この一連の議論の本旨は、(井上の言い方に倣うならば)むしろ前衛短歌が〈私〉を「永遠の炎(かぎろい)」のような不定形なものとして示すものだという点にあるのであって、それを「見すえる」ことは、現象としての「炎」のうつろいを前にただ漫然と立ち会い続けるようなことではなく、結局は「ただ一人だけの人」の存在を予期しながら、あくまでも同一の対象であるその姿に目を凝らすのと同じことなのではなかっただろうか。

さて、ある種の芸術作品は、同一の対象である主体が息づいている世界をひらいてみせることによって、その〈生き方〉を示してみせるものである場合がある。〈生き方〉というのは、本来的にただ示されるものでしかないはずのものだが、それを示してみせる具体的な手段の一つというのが〈物語〉を紡ぐことである。

実際のところ、〈生き方〉というのは、実際に生きてみせることによって示すことができるなら、それが一番手っ取り早いものだろう。自己啓発書というのは、多かれ少なかれそういうことをやっているものであり、だからこそ、書かれていることを現実に実践している著者が「倫理的前衛」(ブルデュー)としての自己を提示してみせることによって、読者をして、そのような〈生き方〉こそが望ましいとされる日常世界へと駆り立てる。

翻って、思弁的などと批判された「セカイ系」的な〈物語〉を紡いでみせるということは、この〈私〉にとって大切に思われることが正しく大切なこととして認められる手ごろな私的領域――自分という存在を確かに認めてもらえる象牙の塔へと撤退したまま暮らしていくような〈生き方〉を示すことだろう。そのことを思うとき、私は、ゼロ年代のセカイ系作品として決定的なものの一つだろう『雲の向こう、約束の場所』が、巨大な「塔」を中心として、想像力が現実世界を際限なく侵食しようとする危機を描いた物語だったことを連想する。その結末は、ようするに「君」と「僕」との二人だけの関係性への帰着だったわけだが、夢から覚めたヒロインに対して主人公がかけたのは「おかえり」という言葉だった。

そうなんだよ! ぼくに必要なのは安らかな境地なんだ。そうとも、人から邪魔されずにいられるためなら、ぼくはいますぐ全世界を一カペーカで売りとばしたっていいと思っている。世界が破滅するのと、このぼくが茶を飲めなくなるのと、どっちを取るかって? 聞かしてやろうか、ぼくがいつも茶を飲めれば、それでいいのさ。きみには、こいつがわかっていたのかい、どうだい?

(著=ドストエフスキー、訳=江川卓『地下室の手記』p.192)

「社会的なもの」に疎外され、想像の世界に囚われた者を現実に引き戻すのは、社会や政治といったコンテキストではなく個人性であるという気づきは、しかし、こうした地下生活者的なアモラルへのヒューマニズムからの応答として散々にわたって踏襲されてきたものだろうことは言うまでもない。とはいえ、穂村弘の「わがまま」はあくまで穂村弘のそれであり、どんな「短歌という爆弾」をつくったところで〈私〉たちは穂村弘にはなりえない――その個人の〈生き方〉をめぐる「自己づくり」は、そのセカイに息づく者の助けになるかもしれないが、そのセカイの外に息づく何者かを救うことはない――という当たり前の事実は、個人が言葉を尽くして語りうるようなことでもないだろう。

〈私〉たちの〈生き方〉は、ただ〈私〉たちの〈物語〉としてひらかれ、示される。ほかならないその一人称による〈生き方〉の提示の反復を「自己づくり」と呼ぶとき、少なくとも私には、寺山の言う「一人称による全体文学のこころみ」という言葉の理解に近づくような感覚がある。むしろ(私にとって)問題となるのは、短歌の営みの一部としてその「自己づくり」の過程について批評するとき、批評する側は、本当は誰の何について批評しているのかという点だ。

「兄さんは世の中に起こることが何もかもいやなんでしょ」

彼女にそう言われると、僕はますます憂鬱になった。

「違う。違うよ。絶対にそんなことはない。だからそんなことは言わないでくれ。なんだって君はそんなこと言うんだ?」

(著=J.Dサリンジャー、訳=野崎孝『ライ麦畑でつかまえて』p.263)

「わがまま」とは、言葉ではなく、個人の〈生き方〉についての評言だろう。この評言がその意味を賦活するのは、本来はどのような文脈においてだったのか。言わずもがな、ゼロ年代の終わり、2010年の1月に「サリンジャーは死んでしまった」(小島なお)。

〈私〉たちは、今なお短歌を詠い続けているが、批評はゼロ年代よりこちら側にきちんと追いついているだろうか?


参考文献

  • 著=J.Dサリンジャー、訳=野崎孝(1984)『ライ麦畑でつかまえて』(白水ブックス)
  • 井上法子ほか(2015)「永遠の炎(かぎろい)を見すえて : 短詩における〈レアリスム〉と〈私〉 (研究交流会記録)」 『境界を越えて : 比較文明学の現在』(立教比較文明学会) vol.15 : 173-94
  • 小野田光(2021)「SNS時代の私性とリアリズム」 『短歌研究』(短歌研究社) vol.78 (10) : 68-77
  • 著=ドストエフスキー、訳=江川卓(1969)『地下室の手記』(新潮文庫)
  • 穂村弘(2000)『短歌という爆弾 今すぐ歌人になりたいあなたのために』(小学館文庫)
  • 牧野智和(2015)『日常に侵入する自己啓発 生き方・手帳術・片づけ』(勁草書房)

以下の文献は本文で孫引きしたもの(筆者による引用にあたっては元の文献を確認していない)

  • 岡井隆(1962)「〈私〉をめぐる覚書(三)」 『短歌』(角川書店) vol.9 (7) : 92-9
  • 寺山修司(1963)「私とは誰か?―短歌における告白と私性」 『短歌』(角川書店) vol.10 (3) : 62-9
  • 平野啓一郎(2012)『私とは何か――「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書)