都市を移動することの主題系 永井祐『日本の中でたのしく暮らす』評

でも、これって「東京」が舞台じゃん?

永井祐『日本の中でたのしく暮らす』は、もともと2012年に出された歌集だ。現在入手しやすい同タイトルの本は、2020年に短歌研究社から再刊されたものである(以下、永井の短歌の引用は、短歌研究社から出されている本にもとづく)。

日本の中でたのしく暮らす 永井祐歌集 - 短歌研究社

1981年生まれの永井と同世代の歌人である山田航は、この歌集に触れて、2008年9月のブログ記事に次のように書いている。

現代社会に閉塞感を感じつつもそれを打破しようとする意志がまったくみられない作風で、作者の意図とは別に作品だけ一人歩きして勝手に歌壇の問題児扱いされているような気配です。しかし僕は永井祐こそ同世代で最大の才能を持つ歌人であることを確信しています。

(山田、2008)

永井の作品については、作者がいわゆるロスジェネ世代であることを念頭に、「ほんの些細なことであっても世界の一部を肯定しなくては自分を支えきれなくなってしまう社会」(山田、2008)のなかで、ささやかな日常を肯定しようとする意識が見られるといったことが指摘されてきた。

ここで、永井たちの世代にとって所与の感覚であるとされているのは、「『死』とか『生活』といったものがまるでリアリティを失っていて、面白くもありつまらなくもある毎日が永遠に続いていくような」(山田、2008)社会の閉塞感であり、永井の作品(から垣間見える態度)は、そうした感覚を共有しない先行世代からたびたび反感を買うこととなったとされている。一方で、この感覚を共有しているものとされる同世代以降の読者には、彼の作品は共感をもって受け止められ、多くの後続する歌人に影響を与えたともいわれている。

もっとも、これらは前提の話であり、『日本の中でたのしく暮らす』を読むうえでの力点はそこにはない。永井が一連の短歌によって提示している作品世界のなかで、何がなされようとしているのかを探るためには、おそらく、もっと別の角度からの問いを設定する必要がある。

日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる

『日本の中でたのしく暮らす』という歌集のタイトルは、この1首から採られている。同じタイトルでまとめられている一連をはじめ、永井の短歌が描き出すのは、もっぱら「東京」という都市を舞台にした、なんでもない日常の光景である。

一方で、「日本の中で」という言い方をしているのにもかかわらず、作中に描かれる人物の日常が「東京」を中心とした首都圏を離れることはない。

大みそかの渋谷のデニーズの席でずっとさわっている1万円

タクシーはけっこう安い ふわふわと千葉・東京の間の夜だ

200円でおいしいものを手に入れろ 残暑のゆれるところをすすむ

このようなテンションで、「無機質な都市感覚のなかで即物的に『お金』や『季節』や『都市名』が記録される」(西巻、2012)のがこの歌集に一貫しているスタイルである。

だが、なぜ彼はこうした「東京」の内部をさして、「日本の中で」という言い方をしているのだろう。ここで描き出されている「日本」とは、本当はどのような場所なのか。また、そこにおいて「たのしく暮らす」とは、いったいどのようなことを意味しているのだろうか。

家族的なものの不在について

永井の短歌には、語り手の家族について触れている短歌、いわゆる家族詠がないという指摘がなされることがある。実際のところ、使われている語彙に注目するかぎりでは、「弟」がいる自分を想像してみている歌があるものの、ほかにいわゆる「家族」に言及している歌は見つけられない(なお、このほかに「一人っ子」という家族のあり方に言及する語彙は見つかる)。

このことに触れながら、永井をはじめとするゼロ年代以後の歌人たちを念頭に、次のように述べている文章もある。

家族とは、最も身近な他者である。それが、もうイメージとしてしか存在できなくなっているということにわたしは強い衝撃を受けた。単純に考えると、それだけ家族関係が稀薄になっているということだろうか。しかし、それだけではなく、家族とさえ対立できないほど自らの内に引き籠っていると見ることもできるのではないか。

(柳澤、2013)

しかし、少なくとも『日本の中でたのしく暮らす』に関していうならば、「自らの内に引き籠っている」という指摘はあたらないように思われる。

今日は寒かったまったく秋でした メールしようとおもってやめる する

友達に映画をおごるおごられる 道に小さく竜巻がある

CDは貸してメアドはきいてない 千葉と東京天気がちがう

作中に描かれるこの人物には友人がいて、たびたびメールでコミュニケーションをとったり、一緒にどこかに出かけたり、CDの貸し借りをしたりしている。この人物は、他者とのコミュニケーション的なものに比較的積極的な印象が見受けられ、その意味で「自らの内に引き籠もっている」という柳澤の指摘は、必ずしも的を得ていない。

一方で、『日本の中でたのしく暮らす』では、語り手は他者との関係性に深く踏み込まず、つねに一定の距離が置かれているように見えるというのは確かである。この点は、たとえば、瀬戸夏子『はつなつみずうみ分光器』の紹介においては、「他人を勝手に歌のための都合のいいアイテムにしない」「適切な距離感」があるという言い方で指摘されている。

ローソンの前に女の子がすわる 女の子が手に持っているもの

電車にバッグを投げつけて怒鳴り散らす女性 ぼくのいる位置 女性のいる位置

こうした作品のなかでまなざされている人物たちは、ただその場にいるということがまなざされるばかりで、その内面にまでは関心が向けられない。

個人性と「バランス」を取ること

私たちが永井の作品に「家族詠がない」という言い方をするとき、問題化しようとしている他者との関係性のあり方は、むしろこの点にある。なるほど、『日本の中でたのしく暮らす』のなかでは「家族」が直接描かれないが、そのことはただちに他者とのコミュニケーションの不在に結びつくのではない。しかし、そこでは確かに、何かが言い落されている。

それは、端的に指摘するならば、その場に居合わせることの目的をともにしているような関係性のあり方である。おそらく、この語り手の世界観のもとには、私たちは個人として、それぞれに異なる目的をもって日常を暮らしているという感覚が強い前提として存在している。そこにおいて家族的なものというのは、社会的な単位としての「家族」というよりは、日常生活上の目的をともにしうる関係性として意味を帯びている。

カップルが袖をまくって手をつなぐ きっとしっかりつなぐためだろう

カップルが映画の前売券をえらぶガラスケースを抜けてく西陽

〈カップルたちがバランスを取る〉のをぼくはポケットに手を入れて見ていた

『日本の中でたのしく暮らす』でたびたびまなざされる「カップル」たちは、互いの手をつないだり、一緒に見る映画を選んでいたり、いずれも一人では完結しない行為をしている。そうして「カップル」たちが意味ありげにまなざされるのは、「家族」という共同体的な暮らしの単位がほとんど背景化した社会のなかで、一人ではなく誰かと、そうすることの目的を共有しながらそうするということが、かえって価値あることと見なされているからだ。

このような捉え方をするとき、『日本の中でたのしく暮らす』で描き出される日常は、実はとても強く個人化されていることがわかる。もちろん、この語り手にはどうやら少なからず友人がいて、確かにコミュニケーション的なものがなされていた。しかし、彼のそうしたコミュニケーション的なものにはしばしば独特な癖があり、たとえば「メールしようとおもってやめる する」、「映画をおごるおごられる」、「CDは貸してメアドはきいてない」といったように、基本的に彼の視点で自己選択された事態として説明される。

あの人と仲良くなってこの人と仲良くならない 頭つかれた

このどこか歪な論理によって支えられている世界のなかでは、友人と仲良くなる・仲良くならないことのように、本来ならば自分の都合だけに左右されるのではない事態までもが、この自分の意志のはたらきの結果であるかのように回収されてしまう(おそらく少なくない読者が、すでにこの表現に違和感を覚えないところにまで、私たちの個人化は進行している)。

この世界は、いわば、個人の主体性のもつ重力が強すぎる世界だ。そこではほとんどあらゆる事態が、個人の目的と関連づけられたものとして語られ、自己選択の結果であるかのように捉えられる。そうして私たちの日常が個人化された社会のなかで、個人性をすっかり殺してしまうのではなしに、その重力から逃れるためには、他者とのあいだに開かれる共同性の内部に自己を埋め込むしかない。

人々を初詣に行かせる力 テレビの向こうにうずまいている

テレビにうつる人を友達だとおもう 厚着して丸っこくなっている

2月5日夜のコンビニ 暴力を含めてバランスを取る世界

鍵として目されるのは、誰かと一緒にいることである。「テレビ」に映し出される人々は、あくまで群衆としてまなざされ、個人としては捨象されるがゆえに、そのなかの一人ひとりには焦点が向けられない。そういうふうに、誰かと自分を積極的に同化しようとする(「友達だとおもう」)ことによって、彼は、個人の主体性がもつ力とのあいだで「バランス」を取ろうとする。

都市を移動することの意味

彼にとっては都合がよいことに、「東京」という場所はすでに、誰かと一緒にいるのに便利な都市空間として開かれている。

事実として、公共交通機関がよく整備されている首都圏では、いわゆる車社会である地方とは違って、誰かと移動をともにするという事態が発生しやすい。というより、もっと正確にいうならば、都市部では、人々はどこか同じ場所に向かっていながらも、その場所に向かっている目的はそれぞれに異なるという事態があたりまえに起こりうる。

休日の平日の山手線で池袋まで真昼の昼寝

やせた中年女性が電車で読んでいるA5判の漫画のカバーなし

だからこそ、歌集を通じて繰り返し描かれる電車のなかで、人々は互いにまったく異なる他者として、それぞれの時間を過ごしている。瀬戸が「適切な距離感」という言い方をしていた都市的な感覚は、おそらくこの語り手が意識的に選択した結果実現しているというよりも、この都市空間がもともとそういう場所であるために、そういうものとして生きられているのである。

一方で、この都市空間で正しく「バランス」を取るためには、その場に居合わせることの目的をともにしているような関係性のなかに、適度に身を置く必要がある。そして、それが実際に実現されようとするのが、誰かと一緒に都市空間のなかを歩いて移動しながら、会話を交わす現場である。

空気中の微生物を食べてるような今夜の散歩 ずっとつづけ

帰りの電車二駅分をおしゃべりし次の日ふたりとも風を引く

ある駅の あるブックオフ あの前を しゃべりながら誰かと歩きたい

彼は、誰かと「電車」に乗るかわりに「二駅分を」歩きながら「おしゃべり」するようなことが「ずっとつづけ」ばいいという言い方をする。あるいはまた、そうして「しゃべりながら誰かと歩きたい」という彼の思惑は、やはり彼の主体性のみによっては叶えられない願いに留まり、実際に「ずっと」は続かない。

月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね

永井が描き出す「日本」は、私たちのあり方が強く個人化されている社会である。その「東京」という都市空間に生きている私たちは、それぞれに異なる目的をもって日常を暮らしているが、まさにそのような都市空間に居合わせていることを契機として、「日本」という言葉に象徴されるような、ゆるやかな共同性の内部に引き込まれる。

もっとも、その共同性は、私たちの個人性をすっかり代替してしまうような類のものではない。彼と友人たちとの散歩がいつかは終わり、みんながそれぞれ帰路に着くように、私たちはやがて個人化された日常のなかへと戻っていく。

次はあの日付をたのしみに生きる そのほかの日の空気の匂い

それでも、そうした「たのしみ」となる時間が断続的に続いていく日常に、この語り手は希望を託している。そうして、個人の主体性のもつ重力に押しつぶされないように、ゆるやかな共同性とのあいだを行き来する暮らしを続けることが、ここで言われている「日本の中でたのしく暮らす」ということの意味だろう。

それは地味でささやかな暮らしなのかもしれないが、そうやって揺れながら走る「電車」のなかで「バランス」を取り続けるように、「東京」という都市空間を乗りこなそうとする日常は、確かにエキサイティングなものであるに違いない。

引用