堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』について

『やがて秋茄子へと到る』の批評しにくさ

短歌のなかには、批評することに困難を感じるものがある。堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(以下では『秋茄子』と略して書く)は、少なくとも私にとっては、そういうタイプの歌集だ。

東郷雄二は、『秋茄子』がよく読まれているわりにあまり批評されていないことに触れ、「それは堂園の短歌の批評のしにくさに原因がある」という(東郷、2013)。この文章の言い方によれば、堂園の短歌は「従来の伝統的な短歌の読みのコードを拒否する」ものである。

球速の遅さを笑い合うだけのキャッチボールが日暮れを開く

(一〇二)

東郷は、たとえばこの一首をあげながら、「結句の『日暮れを開く』という措辞にやや詩的修辞が感じられるだけで、どこに読みのポイントがあるのかわからない」という指摘をする。ここで言われようとしているのは、つまり、「従来の伝統的な短歌」(たとえば「近代短歌の文脈内で作られた歌」)には、「読みのポイント」なるものがあるということである。

円形の和紙に貼りつく赤きひれ掬われしのち金魚は濡れる

/吉川宏志

東郷によれば、吉川のこの歌の「ポイント」とは、「水の中では金魚は濡れているように見えず、水の外に出た時に初めて濡れるという逆説的真実の提示」である。

このとき、私たちがしている短歌の批評のゴールは、ようするに、その短歌が詠まれたことによって、何がなされようとしていたのかを読み解くことにある。吉川の短歌の例であれば、「逆説的な真実の提示」というのが、この作品から読み解かれるべき意図や目的、東郷がここで「読みのポイント」と呼んでいるものにほかならない。

わからないことに意味がある?

短歌の文脈にかぎらず、一般的な批評というのは、他者が何をしようとしているのかを察して、その人がそうしていることについて、何らかのコメントをすることである。

このとき、なされていることの意図や目的を踏まえなければ、コメントは的はずれなものになってしまう。だから、私たちの批評は、その表現を通じてなされていることの背後に、その表現を残した人の意図や目的を前提しなければならない。このような批評のあり方こそ、東郷が「従来の伝統的な短歌の読みのコード」という言い方をしていたものである。

実際、『秋茄子』について、このような「読みのコード」を適用することがまったく不可能なわけではない。『秋茄子』の文体には、「静謐な詩性、四季への偏愛、ストイックな構成」(大森、2014)といった言い方で指摘されるような、ある種の特徴も見受けられる。そこで、『秋茄子』を取り上げている批評の多くは、「なぜ、このテキストはそのように書かれているのか」という、テキストの背景の推理へと向かっていく。

たとえば、染野太朗は「堂園短歌は何らかの現実の暗喩ではない」「『この言葉を置きたい』という作者の意志だけがそこにある」と考えたうえで、「現実を介在させない〈世界〉を創り上げることで、現実に抵抗しようとする。堂園昌彦が短歌でやろうとしていることは、そういう試みなのではないか」という推理をしている。また、花山周子も、『秋茄子』では「言葉によって世界を構築する」ことを通じて、「感情、愛、を他者、世界に受け渡す」ようなことがおこなわれているという意味づけをする(石川、2014)。

あるいは、澤村斉美は、『秋茄子』のように「美しいものを求める心を、何かの突破口にしようという試みは、時代の閉塞感と無関係ではない」という。この推理のなかでは、『秋茄子』で実現されている詩的な雰囲気が、「閉塞感」のある時代における「何かの突破口」となる手立てのように位置づけられているのだろう。また、大森静佳はこの考え方に首肯したうえで、「息苦しい時代だからこそ、ささやかな感情や記憶をせめて美しく悼みたいという思い」があるのではないかと推理している(大森、2014)。

もっとも、これらはいずれも「作者がそういうテキストを提示していること」についての批評であって、テキストの内容についての批評にはなっていない。

季節外れのいちごを持って意識には血の川が流れているよゴーギャン

(〇九三)

それでは、堂園という作者ではなく、この一首を発話しているこの語り手に対して、批評的な「読みのコード」を適用しようとするとどうなるだろう。石松桂は、この一首について次のように鑑賞する。

「いちご」とは「苺」なのか、それとも「意識」、「血の川」、「ゴーギャン」の頭文字を取った言葉遊びなのか、明確な意味こそわからないが、言葉とそのイメージの豊饒が感受される。外形的には「文」として成立しているのだが、「文」としての意味は汲み取れず、つまり意味の引力によることなく、助詞の力で句を結びつけている印象がある。

(石松、2021)

先ほど私は、一般的な批評というのは、他者が何をしようとしているのかを察して、その人がそうしていることについて、何らかのコメントをすることだと指摘した。しかし、『秋茄子』の短歌は、しばしば「『文』としての意味は汲み取れず」「明確な意味こそわからない」ものとして現象する。それでもかまわず「読みのコード」を適用し、何なのかわからない表現に対してコメントしようとすると、私たちは、本当はこのわからなさにこそ意味があるのだというコメントに着地したくなる。事実、石松は『秋茄子』について「意味・論理よりも言葉の連なりの美しさの方を選ぶ、ある種の容赦のない美学がこの歌集を通底している」と評し、「作者がそういうテキストを提示していること」についての批評へと向かってしまう。

語り手はそこにいるのか

私はべつに、『秋茄子』に対するこうした批評が間違っているというつもりはない。そうかもしれないし、そうではないかもしれないとも思う。それは信仰の問題だろう。たとえば、染野や花山は、堂園の短歌が「現実の暗喩ではない」「言葉によって世界を構築する」ものだと指摘していた。私は、この指摘は的を得ているものだと思う。一方で、そうして「構築」されている世界にはじめから意味がそなわっていると考えるべきなのかは、私にはよくわからない。

私の個人的な考えをいえば、『秋茄子』は歌集というよりも、むしろ小説や戯曲のような姿をしている。レトリカルな点を指摘するなら、『秋茄子』の短歌においては、いわゆる「従来の伝統的な短歌」が採用しているのとは異なる人称空間が実現されているからだ。

僕もあなたもそこにはいない海沿いの町にやわらかな雪が降る

(一三七)

この歌集のなかの語り手と呼びうる存在は、確かに「僕」という一人称を用い、「あなた」や「君(きみ)」といった二人称を使うが、歌集が立ち上げる〈世界〉のなかに存在する特定の人物の視点をともなわない。この語り手は、歌集に描き出される〈世界〉が現象している〈いま、ここ〉とはどこか異なる時空にいて、「あなた」や「君(きみ)」を含む「僕たち」を二人称小説的に見下ろしている。だからこそ、「僕もあなたもそこにはいない海沿いの町」に雪が降っているという〈世界〉の事実について、こうして違和感なく描写することができる。

球速の遅さを笑い合うだけのキャッチボールが日暮れを開く

(一〇二)

「読みのコード」にもとづいて短歌を読むことに慣れている読者は、こういう短歌を前にすると、語り手が何かの意図をもって、この情景を提示しようとしているのだと考える。だが、『秋茄子』の短歌がしているのは、実はそうした意図をそなえた発話行為ではない。この歌集の背景にある〈世界〉というのは、たとえば「球速の遅さを笑い合うだけのキャッチボール」さえもが、こうして日が暮れかけている光景を開いてしまうように、そこに〈世界〉を構成しようという語り手の意図や目的がなくても、自然と開かれてしまうタイプのものである。

明け方の雲や烏や自転車が私の価値観を照らすなり

(一三四)

かといって、たとえば「雲」が「雲」であることや、「烏」が「烏」であること、「自転車」が「自転車」であることに、この〈世界〉の「神」や「作者」のような超自然的存在があらかじめ意味を託しているのでもない。つまり、ここに開かれている〈世界〉のわからなさには、はじめから意味などそなわっていない。それらがまなざされるとき、照らされるのは「神」や「作者」の意図や目的などではなく、むしろ(ここで唐突に「私」として焦点化される)この語り手にとっての〈世界〉の意味、この語り手の「価値観」である。

秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは

(〇二五)

このような読み方をするとき、この一首は「光らせて」の前後で主語がねじれていることがわかる。「秋茄子を両手に乗せて」いるのは語り手によってまなざされる〈世界〉の一部である「僕たち」だが、そうして「秋茄子」を「光らせて」いる彼らや自分自身について「どうして死ぬんだろう僕たちは」と考えているのは、この語り手である。

この語り手はこうして〈世界〉と対峙し、自分たちが生きるに値する〈世界〉の意味について考える。その意味にあらかじめ用意された正解はなく、また、この語り手も自分にとってのそれが何なのかをわかっていない。あるいはいつか、わからないまま「死ぬ」のかもしれない。それでも、この〈世界〉をどのようなものとしてまなざすかに、この語り手の「価値観」はあらわれている。

未来があれば読める「詩」の「光」

『秋茄子』が描き出す〈世界〉には、詩的なものの放つ、さやかな「光」がさしこんでいる。

クローバー(むし)って投げたあの庭を今は光が埋めているなり

(一三八)

冷たさの光のなかで刻まれる紫蘇、その紫蘇の放つ芳香

(一八六)

この語り手が〈世界〉のなかに見出す「光」というのは、その意味のまだはっきりしないものたちが、これからの未来に意味を帯びようとする兆しのようなものだ。「従来の伝統的な短歌」が立ち上げる〈世界〉は、その「作者」によって、はっきりとした意味をあらかじめ託されたうえで立ち現れる。一方で、あらかじめ何者かに意味を託されるのではなく、ひとりでに開かれている『秋茄子』における〈世界〉の意味は、この語り手自身にとっても、まだ明らかでない。

このタイプの「詩」は、私たちがすでに経験したことのある「実感」に訴えて、その意味が正しく伝達されることを目的としている詩歌とは、異なる読まれ方をするものだ。渡邊十絲子は、穂村弘の評論を念頭に、このような「詩」を指して「幻の時としての未来と響きあう」(渡邊、2013 p.34)、未来さえあれば読める詩という言い方をする。

ある詩を何年経っても読みあきないというのは、番地をさがしつづけていることでもあるし、謎をときつづけているということでもある。短期的に答えが出てしまうのは「謎」ではなく、謎というのは角度や深さをかえながらさまざまなアプローチをつづけていくことによってしか接近できない。この「接近しようとするこころみの途上」にあるとき、人はじつにいろいろなことを知り、感じ、考える。あらたなアイディアをもってその詩の謎に向かうとき、あらたな自分がうまれる。

(渡邊、2013 p.72)

抽象的なことをいえば、そこに開かれているだけの〈世界〉に、意味ははじめからそなわっていない。それらの〈世界〉は、いわば「詩」として読まれることによって、はじめて意味を帯びる。そうして現象する「詩」は、その「詩」を読む者にとってのみ、意味を帯びるだろう。この意味において、こうした「詩」の意味は、それが読まれることのなかにしか存在しない。

とても小さなスロットマシンを床に置き小さなチェリー回す海の日

(一六四)

『秋茄子』が立ち上げる〈世界〉は、この歌集の語り手にとって、いわばそのまま「詩」として現象している。この語り手も、あるいはそれに何の意味があるのかはわかっていなかったかもしれない。それでも私たちは、この語り手が残した「詩」を読む。私もまた、この光景の意味を批評できるほどにはわかっていない。しかし、それにもかからわず、この部屋には、あるいは語り手がそこに見ていたのかもしれない「光」が、確かにさしているような気がする。

堂園は『秋茄子』のあとがきで、やがて忘れられてしまうだろう記憶を集めて「小さな墓をつくり」、「その周りに賑やかな草花が咲く」ことを待っていようということを書いている。私には彼のこの「詩」の意図するところが必ずしも汲みきれないのだが、思うに、「墓」というのはきっと、できるならば繰り返し訪れるべき場所であるに違いない。人が何かを弔うのは、死んでしまった他者のためではあるが、未来を生きていく私たち自身のためでもある。どう批評すればいいのかは相変わらずわからないままなのだが、これはきっと、そういうふうに読まれるべき歌集なのだろう。

引用

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