歌人の手つき(Ⅱ)西村曜『コンビニに生まれかわってしまっても』を読む

※この文章は、前半と後半(この記事)に分かれています。あとでもうすこし体裁を整えて、(Ⅰ)とあわせてPDFにまとめる予定です。

なぜ「手つき」が短歌をめぐるキーワードになるのか

『コンビニに生まれかわってしまっても』の弱者男性的世界観

西村曜『コンビニに生まれかわってしまっても』は、Ⅰ部からⅢ部にわかれている。

読み進めていくとやがて気づくが、巻末で加藤治郎が指摘しているように、この歌集では、はじめは「俺」だった一人称がどこからか「わたし」に変わる。それは詠み手の心境の実質的な変化かもしれないし、あるいは歌集にまとめるにあたって構成されたものなのかもしれない。

それはどちらでもよいのだが、しかし、ここで問うてみたいことがある。この歌集の一人称は、なぜ「俺」から「わたし」へと変化するのだろう。その理由や原因は何だろうかという疑問ではない。順序の話だ。なぜ、この一人称の変化は、「俺」から「わたし」であって、「わたし」から「俺」ではなかったのだろうか。

一人称「俺」の勢いで歌われる作品は、どれも「男性的」である。当たり前に思われるかもしれないが、そうではない。

まだ俺はやれると俺を騙しつつ陰雨のなかで続く生活

母親に自慰を見られていたこともめぐりめぐっていま桜ばな

(西村曜「たとえばボンベイ・サファイアの小瓶」)

ここでいう「男性的」というのは、ようするに「男性である」という意味ではない。Ⅰ部の「俺」は、いわゆる弱者男性とでも呼べそうな存在として描かれる。ここで自分語りしている「俺」は、マジョリティ男性として人生を順風満帆に謳歌しているような男性ではない。むしろほとんど執拗なほどに弱者である。彼は「陰雨」のなかで自らを誤魔化したり、母親に「自慰」を見られたていたりと、まあなんというか、非常に立つ瀬がない。

都会風サラダなんかを売っている時点で田舎 俺の住む街

(西村曜「問いと誤字」)

グリンピースきれいに避ける 逃げろって言われて逃げた子どもの末路

(西村曜「花降り」)

彼は「都会風サラダなんかを売っている」地方に住んでいて、自らをそこから抜け出せないまま大人になってしまった出来損ないみたいな調子で位置づける。その一方で、一度歌集に恋愛の気配が兆すと、この男性的な「俺」の語りは、その語気を和らげるかのように「僕」の語りへと変化する。

本当に死ぬのだろうか生きている僕のまぶたがしまう眼球

あら、これは曲がるストロー間違えた道を歩んであなたと会った

(西村曜「下から数えたほうが早い」)

とても大雑把な言い方をすると、「あなた」と共にいるとき、彼の極端な弱者男性的な自認は息をひそめ、それに応じるようにその語り口もやや女性的になる。そして、こうなったときに唐突にまなざされるのが、奇しくもというかやはりというか、「指」や「手のひら」なのである。

目隠しの両手にあたためられていて両目泣いたら勝ちなんだけど

生き方といえばそれまで キャラメルの包みをたたむ指を見つめた

涙・イン・リンス・イン・シャンプー・イン・手のひら じゃあねまた会えるから

(西村曜「下から数えたほうが早い」)

「風」をかたどる〈女〉たち/「ぢっと手を見る」〈男〉たち

これのどのへんが奇しくもでやはりなのかは、すこし説明が必要だろう。

「手」というモチーフが重要そうなものとして描かれる作品は、現代短歌ではわりと目にとまりやすい。たとえば、「手のひら」は、俵万智の比較的初期のころの作品に次のように描かれる。

四万十に光の粒をまきながら川面をなでる風の手のひら

(俵万智「風の手のひら」)

「風の手のひら」が収められている、俵万智『かぜのてのひら』は、もともと一九九一年に刊行された歌集である。同書は『サラダ記念日』から四年を経て出された俵の第二歌集であり、そのなかでも「風の手のひら」という連作は、作中主体の女性がその交際相手と思われる「君」とともに彼の故郷である「高知」を訪れ、彼の過去や心境について思いを馳せるというような内容になっている。同じ連作中からほかにも引用しよう。

水平線を見つめて立てる灯台の光りては消えてゆくもの思い

十七の冬に一人で来たという君はその日の海を見ている

かつて絵を志したる君の語彙「ウルトラマリン」はどんな青

風そよぐせいたかのっぽの木の頭上 我には見えぬ青空がある

未来ばかり言いて故郷は言わざりき君を育てし高知この町

(俵万智「風の手のひら」)

このような雰囲気の連作において、「風の手のひら」というのは、いわば実体のないものについて、それでもたしかに感触するような〈手つき〉を演じようとする「手のひら」である。ありていな言い方をすれば、この作中主体の女性もまた「風の手のひら」がそうするように、彼女にとっては触れえないものかもしれない「君」の隠された部分に手を伸ばし、触れてみようとする。この連作に描かれるのは、そうして触れえないものの感触をたしかめようとする、どこか女性的な感性のあらわれだといえるのではないだろうか。

もちろん、こうした〈手つき〉の描かれ方を押しなべて「女性的な感性のあらわれ」と見なしてしまうのは、さすがにちょっと乱暴すぎるかもしれない。それでなくとも、「手」というのは私たちの身体のなかでもとりわけ随意的に動かせていろいろできる器官であるため、はっきり言って、私たちが自分で何かをしようと思うときに、ほとんど必ずといっていいくらい絶対に描かざるをえなくなる部位である。とりわけ「手」から派生している日常の語彙は、他の身体語に由来するものよりも格段に数が多いことから、「目」や「足」などと比べても、「手」というのはきわめてありふれた表象であるようにも思われる。

他方で、実際には、古典和歌で「手」のような身体語が出現する例は「黒髪」(当世の女性らしさの象徴として用いられた表現)を除けばかえって少ないくらいで、近代短歌においても「歌語として「手」が使われる例はやはりそう多くない」(朱, 2012)という報告がある。くわえて、この研究がとくに注目しているのは、石川啄木が、なぜかこの「手」というモチーフを繰り返し取り上げている点である。

この研究によれば、啄木の歌集において、「手」の出現する歌が総歌数に占める比率はいずれも三%を超えており、『悲しき玩具』にいたっては一九四首中一六首に「手」が詠み込まれているのだという。その一方で、よく知られる近代短歌(『近代短歌の鑑賞と批評』『現代短歌』『近代の名歌名句1000』『鑑賞 日本現代文学 現代短歌』中の延べ四二七七首)のなかでも「手」が出現する短歌はたかだか一・四%程度であったと報告されていることからも、啄木は「手が気になってならなかったというか、何かにつけ手を意識してしまった」のだという指摘は、そうやすやすと看過できそうなものでない。

はたらけど
はたらけど猶わが生活(ルビ:くらし)楽にならざる
ぢつと手を見る

(石川啄木「一握の砂」)

啄木の作品で、ずばり「手」をまなざしている歌といえば、この一首だろう。(石川啄木という個人の人格性にはひとまず目を向けないものとして)この歌は、いわば啄木の弱者男性っぷりが、ひとえに「手」をまなざしていることによって遺憾なく印象づけられている。それはなぜかというと、啄木が彼の「手」を見つめるときというのは、どちらかというと「手」から想起される機能の不在こそがまなざされる瞬間だからだ。

先ほどの研究では、短歌において「手」が出現するコンテクストとして、(1)「手」を使って作業する・働くという「労働」に関する文脈、(2)「手」を使って他者とコミュニケーションを図るという「接触」に関する文脈、(3)メトニミー的な機能としてそのような「手」の持ち主を表象するという「存在」に関する文脈があるとしたうえで分析がおこなわれている(もっとも、これらの類型は、着眼点としては見通しがよいものの、実際の類型への当てはめには恣意性が感じられるとともに、この類型に引きずられるようなかたちでかえって有効な読解が妨げられている印象を受ける)。

一方で、啄木が自らの「手」を意味ありげに見つめるのは、むしろ「手」が有効に機能する「労働」や、他者との「接触」の場面から距離を感じているシーンである場合が多い。彼が見つめる自らの「手」は、たとえば彼の友人のようには上手く「労働」や「接触」の文脈に関わることができない〈私〉のメトニミーであり、翻っては、他者の「手」は、いわばこの〈私〉にはそなわっていないものの象徴のようにまなざされる。

おどけたる手つきをかしと
我のみはいつも笑いき
博識の師を

つくづくと手をながめつつ
おもひ出でぬ
キスが上手(ルビ:じょうず)の女なりしが

(石川啄木「一握の砂」)

だから、彼は、おそらく男性であるはずだろう「博識の師」の〈手つき〉をからかい、自らの「手」を眺めながら、自身とは対照的な他者なのだろう女性のことを連想する。言ってみれば、啄木的な弱者男性的世界観のもとで「手」というのはある種の社会性、すなわち、その主体にはそなわっていないものの象徴としてまなざされやすい。さらに、ともすれば危ういかもしれないまとめ方をすると、「手」が象徴する個人の社会性は、現代社会においてはいわば「女性性(非男性性)」と見なされる機能であることから、こうした〈手つき〉への関心は、男性的なそれではなく、むしろ女性的な感性こそを媒介にして駆動するのである。

〈私〉たちの「手」と社会性の論理

『コンビニに生まれかわってしまっても』の話に戻ろう。

あなたのそのえくぼに小指入れられる仲になるためまずは働く

(西村曜「ナイトウォーク」)

こういう論理を展開する「俺(僕)」は、いわゆるふつうの人のように「労働」し、一定の社会的な地位を獲得することと、「あなた」と親密になりうるような社会性を獲得すること(「あなたのそのえくぼに小指入れられる仲になる」)とを関連づけている。「あなたのそのえくぼに小指入れられる仲になる」ことは、論理的には「労働」していることとは必ずしもつながりがないはずなのだが、ここで、弱者男性的な「手」にかかる本来の機能、社会性の不在は、「労働」の文脈に自然と結び付けられている。

これも非常に大雑把なまとめ方であるのを承知で指摘すれば、この歌集は、「俺(僕)」が「あなた(きみ)」との親密な人間関係を構築しようとすることによって動機づけられ、そのためにも社会性を獲得する、すなわち「労働」の文脈に関わろうとする物語としての側面をもっている。

「いつまでも実家ぐらしはアレだし」と言う俺自身わからないアレ

生きていく 求人サイトの検索に「一人でできる」とまず打ち込んで

(西村曜「一人でできる」)

こうして、「俺(僕)」は求職活動をはじめる。その一方で、社会性の獲得が「労働」の文脈と結び付くという私たちの日常論理の建付けについて、彼はいまいちよく整理できていない。その理屈は「俺自身わからないアレ」に過ぎず、おそらくは「労働」ということをも含む、他者との「接触」がそもそも自らに何をもたらすのかについても、初心な彼は具体的な展望を持てずにいるらしい。

ときおりは触れ合う手と手 繋いだらなんて名の付く僕たちだろう

(西村曜「僕はおにぎりが食べたい」)

それでも、彼は「あなた(きみ)」と「手」を繋ごうとする。それがどんな意味をもつことになるのかはわからないままなのだが、そうしようとする。だが、その背後にあって、彼を突き動かしているのは、いったいどのような論理なのだろうか。

まず、ポストフォーディズム的な現代社会においては、二次産業まで含む「労働」の文脈にも、すでにコミュニケーション的なものが浸潤しているとされる。つまり、現代社会では暮らしと仕事の場面の区別が従来の社会よりも曖昧になってしまっていて、「労働」の文脈を含むほとんどあらゆる生活場面のなかで、コミュニケーション能力こそが中心的重要性をもつようになっている。

弱者男性的な自認をもつ「俺(僕)」が社会的な「弱者」であるというのは、社会のなかで他者と良好な関係を築いていくうえで有用な側面(社会性)の再構成にともない、いわゆる「コミュ障」であるということが、スキルとしてのコミュニケーション能力の不在として問題化されるようになった社会状況による。そこで、「俺(僕)」が「弱者」でなくなるには、「俺自身わからないアレ」の理屈にもとづくかぎり、現代社会を生きる私たちの「手」が象徴している本来の機能、新たな社会性の回復によるしかない。

コミュニケーション能力は新たな労働者の能力であるのと同時に、新たな健常者の能力ともなる。そして、昭和の――というのは、ほぼ福祉国家的な、という意味であるが――男性性はそのようなあらたな健常者主義のなかでは「新たな障害者」となって立ち現れるだろう。そして新たな男性的身体性というものがあるとすれば、それはそのような一種の非身体性を本質とするものである。

(河野, 2020)

この引用で「新たな男性的身体性」と呼ばれているものは、つまり、現代社会において男性的な(社会的な)成功を収めるために必要とされるスキル、すなわち、ここまでに社会性と呼んできたものであり、それはコミュニケーション能力という「心」の機能、ある種の「非身体性」を基盤としている。

このような論理のもとで、「コミュ障」が人並な「健常者」であろうとすることは、社会性を欠いているというある種の男性性を捨て去ってしまって、コミュニケーション能力という「新たな男性的身体性」に接近することと同義になる。そしてまた、このようなコミュニケーション能力は、ようするに従来の「非男性性(女性性)」であるがゆえに、それを獲得しようとすることは(あくまでバイナリ的な見方をするならば)「女性性(非男性性)」への接近とも同義になるのである。

〈手つき〉が試される現場としての現代社会

このような事情から、「俺(僕)」は自らの置かれた弱者男性的な状況から脱するにあたって、現代社会における「新たな男性的身体性」である女性的な感性に接近することになる。女性的な感性は、あるいは〈私〉には触れえないかもしれない非身体的なもの、他者の「心」とのコミュニケーションにまつわる関心を引き連れてくる。そうしたなかで自然と生じることになるのが、他者との「接触」の文脈を象徴する〈手つき〉の描写であり、「俺」から「僕」「わたし」へと一人称が揺れ動いていく文体の変化であるのかもしれない。

『コンビニに生まれかわってしまっても』の標題になっている一首は、こうした望ましい社会性の獲得が女性性への接近と同義であるという認識を端的に反映している作品である。

コンビニに生まれかわってしまってもクセ毛で俺と気づいてほしい

(西村曜「キッチンから外へ」)

ここで「コンビニ」に生まれ変わるというのは、突飛な空想の話である以前に、コンビニ店員としての仕事に順応するあまりに自分自身が「コンビニ」になりかわってしまうというような状況として想定されているのだろう。「コンビニ」に生まれ変わるということは、つまり、「俺」としての男性的な〈私〉を制御し、「わたし」としての完全な社会性を獲得するという状況と対応している。

この一首のポイントは、「労働」に順応するために取り入れる社会性によって秘匿される〈私〉について、それでも「俺」であると気づけるための契機が「クセ毛」であってほしいと願っている点にある。なぜなら、「クセ毛」は、ふつうそれをそなえている主体の意思能力によってコントロールできるものではなく、この〈私〉にとってみれば、どちらかというと先天的なものだからだ。

一方で、スキルとしてのコミュニケーション能力は、それがスキルであるという観点から注目されるものであることからも、現代社会においては、ある程度後天的に補うことが可能なものとして認識されている。しかし、この〈私〉は、そうしたものよりも、むしろ〈私〉のコントロールを離れたもののなかにこそ〈私〉にとっての価値を見出している。

「いつまでも一緒に遺体」の変換にそれもいいなとちょっと思った

(西村曜「駆け込み横断」)

そもそも〈私〉の意思による選択が意味をもつのは、こうした意図しない「誤変換」がありうる世界においてでしかない。すべての選択が思うままになされる世界ならば、〈私〉の意思によってはたらきかけることが可能な存在のもつ意味を問うのはナンセンスになる。前提として、〈私〉たちが生きる世界には、〈私〉たちの意思によってはたらきかけることが可能な領域と不可能な領域の両方があり、両方があるからこそ、そのどちらかがどちらかの対照として意味をなすのである。

現代社会において、女性的な感性が社会性と見なされる論理の遠景には、世界のなかの事物を位置づけるパースペクティブとして、〈私〉の意思によってはたらきかけることが可能なもの・不可能なものという対立軸が横たわっている。前者はたとえば後天的で、私的なもの、「手」を伸ばせば「リアリティ」をともなって触れられるものであり、後者は反対に先天的で、他者的なもの、「手」を伸ばしても「リアリティ」をともなわず触れえないものである。そして、この論理は〈私〉たちをして、前者の意思によってはたらきかけることが可能な領域のほうを最大化し、後者の意思によってはたらきかけることが不可能な領域のほうを最小化することに駆り立たせる。

この意味において、『コンビニに生まれかわってしまっても』の主体の男性的な部分は、女性的な感性に必ずしも重要性を置いていない。それでいて、たしかに「あなた」と触れ合える(「そのえくぼに小指入れられる」)関係へと踏み出していこうとするところにこそ、この主体の個人性があるといえるのかもしれない。

もっとも、女性的な感性が社会性と見なされる論理に伸るか反るかが、ただちにその主体の倫理的な評価につながるとは思われない。結局、意思によってはたらきかけることが可能な領域と不可能な領域のどちらに〈私〉らしさを見出すかは、その〈私〉にとっての望ましい生き方次第であり、どちらだからどうだと断じるのはおかしな話だろう。

ただ、いずれにせよ、「手」によって感触される「リアリティ」のあり方は、〈私〉たちが志向する個人性のあり方を示している。「夢のあとさき」の主体がわざわざしく「手」を振っていたのも、『てのひらを燃やす』の主体がこれ見よがしに「手」をかざしていたのも、『コンビニに生まれかわってしまっても』の主体が「手」を取り合おうとしていたのも、少なくとも彼女たちがそれぞれに望ましいと考える生き方においては、そうすることがたしかに意味をなすべきおこないだったからに違いない。

〈私〉たちは、そうした〈手つき〉を演じることによって、この〈私〉にとって「リアリティ」をともなって感じられる世界の領域を押し広げようとする。それは、少なくとも象徴的なレベルでは、そうして自らの意思によって「手」をはたらかせる対象を選び取っていくことが、〈私〉たちが他者的なものと関わろうとするうえで社会的に要請されることだからだ。

繰り返すが、それがただちに良いとか、悪いとかいう話をするつもりはない。また、ここまで述べたような〈手つき〉への観点が、個別の短歌作品の評価に大きく影響するものとも思わない。しかし、なぜ、短歌において〈手つき〉がまなざされるのかという問いに対しては、こういった事情から、〈手つき〉が個人性の端緒になるからだと答えることもできるのではないだろうか。

参考文献

  • 石川啄木 1952 『一握の砂・悲しき玩具』 新潮文庫
  • 河野真太郎 2020 「コミュ力時代の男たち――障害、男性性、クリップ」 編=川本玲子 『ジェンダーと身体 解放への道のり』 小鳥遊書房
  • 朱衛紅 2012 「近代短歌の表現としての「手」に関する問題 : その一般的用法と啄木の特異性」 『文学研究論集』 (30) 1-15 http://hdl.handle.net/2241/116721
  • 俵万智 1991 『かぜのてのひら』 河出書房新社
  • 西村曜 2018 『コンビニに生まれかわってしまっても』 書肆侃侃房