歌人の手つき(Ⅰ)大森静佳『てのひらを燃やす』を読む
※この文章は、前半(この記事)と後半に分かれています。なお、『てのひらを燃やす』からの引用については、ここでは、大森静佳(2018)『新版 歌集 てのひらを燃やす』(KADOKAWA)を底本としています。
はじめに
「手」を振ることの背景
この文章の着想は、乾遥香「ありとあらゆる」(『短歌ムック ねむらない樹 vol.4』)からきている。「ありとあらゆる」の特徴は、以前にも拙論のなかで指摘したが、作中世界の〈私〉の目の前に必ずしも現前しない可能性の世界を幻視するような、独特な語り口にある。
幽霊を見たことがない 幽霊を見たことがある人がいるのに
(乾遥香「ありとあらゆる」)
この語り口は「夢のあとさき」(『短歌ムック ねむらない樹 vol.6』)にいたって、まさに夢から覚めるかのように、作中主体が息づく現実の世界のなかへと立ち戻っていく。そこで、同作のハイライトとなっているのが「モノレール」に「手」を振る歌である。
観覧車に乗らなかったらあの歌がわたしの歌になると思ったんです
(乾遥香「ありとあらゆる」)
モノレールに手を振っているモノレールに知り合いは乗っていないけど振る
(乾遥香「夢のあとさき」)
同作のクライマックスともいえる「観覧車」の歌は、モチーフとしては「君には一日我には一生」(栗木京子)と詠われる、あの例の観覧車を連想させる。
乾の一連の連作は、いわゆる相聞に近い位置にあって、先行する世代の女性歌人からの影響を感じさせるものだ。たとえば、大森静佳『てのひらを燃やす』では、主体は自らの意思とは関係なく否応なしに進行してしまう世界の枠組みに取り込まれていて、そこで語りだされるそばからしらじらしい相聞に変じてしまう関係性を相対化するような語り口に特徴があった。その一方で、乾の一連の連作では、そうした語りの背後にあったようなある種の躊躇いを積極的に踏み越えようとするようすが提示される(ところで、さっきから「乾の一連の連作」という言い方をしているのは、「夢のあとさき」が「ありとあらゆる」のセルフパロディのようなつくりをしているからである)。
たくさんの窓を夜空にめぐらせてめぐりを遠ざかる観覧車
(大森静佳「鏡」)
遊園地はまわるもの多き場所なれば木馬の首の影ながかりき
(大森静佳「輪郭のつばさ」)
「観覧車」というモチーフは、とりわけ女性による短歌のなかで、しばしば特別な意味あいをもって描かれる。大森の『てのひらを燃やす』にも登場する、おそらくは「遊園地」にあって「まわるもの」のひとつである「観覧車」は、大切な誰かと乗り合わせることが〈私〉にとって一生の想い出になるかもしれないという以上に、それをこの先ずっと〈私〉の想い出として引き受けたまま生きていかねばならないという、規範的なものの「影」を感じさせる乗り物だろう。
翻って、乾の「夢のあとさき」に描かれた「モノレール」は、都市の日常的な風景のなかにありながら、「観覧車」に似ていなくもないような――宙空にあって、たくさんの窓が備え付けられた構造物だが、「観覧車」のようにはもといた地上に戻ることのない乗り物であるがゆえに、その先の乗り換えの効かなさということを「観覧車」よりもかえって強く予感させる。
その一方で、「夢のあとさき」の主体は、自分の意思で接点をもちうるものに関しては、そのチャンスを逃せばもうそちら側の可能性を選び直すチャンスにあとはないという気づきに突き動かされるかのように、前のめりに自ら接点をもちにいこうとする。同作の背景には、おそらく、例の「観覧車」に乗り合わせることにまつわる躊躇いをあくまで主体的な選択によって振り切ろうとする特別な文脈が存在しているのだが、あるいはそれゆえにこそ、あの主体は、あえて「手」を振るべき「知り合いは乗っていない」モノレールに向かって、それでもわざわざしく「手」を振っているのである。
人間にできる最も美しいことと醜いこと、そのどちらにも手が関わる。風が吹くと、草花や葉はみな同じ方向に揺れるが、手というのはこの世にあって一つ一つ全く違った揺れ方をする。これから先、私はどれだけの人々や記憶に向かってこの手を振るのだろうか。てのひらが最後に見送るものは、紛れもなく私自身である。
(大森, 2018)
大森が『てのひらを燃やす』のあとがきでこのように語っていたように、他者に向かって「手」を振ることは、一見何気ない動作でありながら、その動作主の人となりの端緒として重要な意味をもちうる。「幼い頃から、怒りや悔しさが兆すとどういうわけか心より先にまずてのひらの芯が痛んだ」という大森の独特な感性によるのでなくとも、そもそも「手」というのは、受動的に「触れる」感覚が起こる器官であるのみならず、自ら動かすことによって能動的に世界の感触をたしかめようとする、〈私〉たちの意思の働きがよく表れる部位のひとつだからだ。すなわち、他の感覚器官が感覚を閉ざす/ひらく手段に比較的乏しいのに対して、触覚だけが例外的に感触する対象を主体的に選ぶことができるものであるうえに、「手」はとりわけ自由に動かしやすいことからも、特別な役割を担いやすい身体部位なのである。
「手」で触れるという身体感覚は、はたらかせる対象をある程度選ぶことができるものだからこそ、文芸ではその描かれ方にしばしば個人性が見いだされ、また、そうした身体感覚の本来的な不在(障害などに由来する、自ら「ひらく」ことの不可能さ)が作品の主題ともなりうる。とりわけ現代短歌において「手」が重要なモチーフと位置づけられるらしい歌集としては、一九九一年の俵万智『かぜのてのひら』を嚆矢として、いずれも二〇一三年にまとめられた、大森静佳『てのひらを燃やす』、山崎聡子『手のひらの花火』、鯨井可奈子『タンジブル』などが思いあたる。また、遠野真「さなぎの議題」に描かれた主体が「肉親の殴打に耐えた」という「手」を隠すように「長袖」を着ていたのは(それが効果的な表現だったかはともかくとして)、女性的な「手」の感覚の不在をなかば記号的に提示しようとしたものだろう。
「てのひらにこそ〈私〉が在ると信じていた」という大森のあとがきは言いえて妙なもので、自らの「手」をどのようなものとして扱いうるかという点は、〈私〉の個人性が試されるところであるのみならず、個人性に対置されるものとしての公共的なものや、社会文化的な慣習がある領域にまでゆるやかに接続している。こういった私たちの「手」の感覚・所作と個人性との関係を扱っている既刊には伊藤亜紗『手の倫理』などがあるものの、残念ながら、短歌評論にまで繋がる試論はおそらく十分になされていない。
【中略】
大森静佳『てのひらを燃やす』を読む
〈私〉に触れくるもの/「影」を落とす植物
大森静佳『てのひらを燃やす』は、大森が「硝子の駒」で二〇一〇年の角川短歌賞を受賞した後、二〇一三年にはじめて出された第一歌集である。
大森のその後の仕事としては、二〇一八年に第二歌集『カミーユ』が、二〇二〇年に「梁」誌上での連載をもとに再編した評論集『この世の息 歌人・河野裕子論』が出版されているほか、単行本には未収録の評論として「わたしの輪郭、いのちの触覚」などがある。もっとも、本論のゴールは大森静佳という個人の歌人論に注力することではないため、ここでは『てのひらを燃やす』より後の大森の仕事については、基本的に立ち入らない。
さて、『てのひらを燃やす』を通読してまず目につくのは、植物を詠み込んだ歌が多い点だろう。
過ぎた日にのみ映像はあふれつつ尖った肩にふれる楠の葉
キャンパスへ背丈を測りにゆく四月イチジクの果樹撫でながらゆく
ハルジオンあかるく撓れ 茎を折る力でいつか別れるひとか
いつまでもということとなく逢いに行く枯れたナズナをちらちらと振り
(大森静佳「硝子の駒」)
「硝子の駒」ですでにこのように詠われる植物のあり方は、作中主体である〈私〉にとって、たしかに「感触をともなう」存在であることと対応している。一方で、きわめて重要な観点として、この歌集に通底する意識のなかで「感触をともなう」という性質は、どうやら「触れることができる」というのとは必ずしも一致しない性質として理解されているらしい。
髪はつねに空にもっとも近いところ暦をめくるように触れくる
かなしみの分け前として花冷えの夜はあり君の背に触れてみる
(大森静佳「硝子の駒」)
ここで「空にもっとも近いところ」から〈私〉の意思によらず「触れくる」のだという「髪」の描かれ方は、どちらかといえば前者の性質に着目したものだが、「花冷えの夜」の「君の背」は少なくとも「触れてみる」ことなら可能であるという点で、後者の性質に寄ったものである点に注意したい。
この微妙な差異の認識とともに、本作の語り口を特徴づけるものとして、作中世界のなかで実際に「触れることができる」のにもかかわらず、本来的に「感触をともなわない」ようなあり方を予兆する、植物の「影」という要素がある。
ふたりでは暮らしたことのなくて葉はかぎ編みに似た影を水辺に
(大森静佳「硝子の駒」)
本作に非常によく登場するモチーフとして「水まわり」があることはあえて指摘するまでもないだろうが、大森の描く「水まわり」には、ほとんど必ずといってよいほどに、この「葉」が落としているのとよく似た「影」が兆している。
「影」は、その主である植物と同様に、確かに〈私〉の〈手〉の届くところにもたらされているものの、本来あるべきはずの「影」としての感触はともなわない。大雑把に指摘すれば、本書の背後にある主題として、植物のように実際に〈手〉で触れられる場所にあるのに感触をともなわない(「影」と同じように、それそのものに触れることができた感覚をもちえない)ものとして人物の「影」という要素があり、それら「影」に向けられるべき身体感覚の遠さが、この歌集を通じて描かれる〈私〉や「あなた」の関係性のあり方を決定づけるものとなっている。
空と水の織りなす世界観
〈私〉の手もとに落とされる「影」の触れなえさということは、やがて〈私〉や「あなた」とのあいだにある隔たりのイメージに重ねられる。
大学の北と南に住んでいて会っても会っても影絵のようだ
(大森静佳「輪を落とす雨」)
「輪を落とす雨」で登場する、この「影絵」というモチーフは、後の「一行の影絵」を経ながら「落ち葉」に描かれる「置手紙」にまでつながっているように思われる。
寂しいひとに仕立て上げたのはわたし 落ち葉のように置手紙あり
(大森静佳「落ち葉」)
歌集を通じてたびたび描かれる「手紙」というモチーフは、かたちをもった「触れることができる」言葉でありながら、〈ことば〉そのものとしては正しく感触しえないものの謂いである。
この認識は、掴まえて手もとで触れてみることのできる蜻蛉の翅について「こころなどではふれられぬよう」「手紙のごとく」畳まれる(「秋とあなたのゆびへ」)とする表現のなかに端的に見て取れる。あるいはまた、「てのひら」のなかで弄ばれる蛾の手触りを確かめながら「触れることは届くことではないのだが」という気づきが詠われる(「歌の眼」)のは、〈ことば〉が私たちのあいだの隔たりを飛び越えてゆけるものでありながら、「手」で触れられることとそれを確かに捉えられるということがほとんど無関係である事実と呼応しているからだろう。
『てのひらを燃やす』における作中世界は、まずはじめに「手」を伸ばしても届かない絶対的な隔たりを象徴する空間としての「空」に覆われていて、その下に、典型的には「雨」のように、いわば〈私〉から触れえないところから落ちてくる(=もたらされる、すなわち「触れくる」または「降りてくる」)ものである「水」にまつわるイメージが溜められている。
この歌集の主体が当初から「噴水の水」に指先をひたしてみていたり(「硝子の駒」)、その後「浴槽」「みずうみ」がまなざされたり(「M・M」)するのは、おそらくこのイメージが次第に膨らまされていくためである。そのほかに「傘」「蛇口」「舟」「さかな」といったモチーフについても、とりあえずは「水まわり」の系譜のものだと指摘してしまって差し支えないだろう。
「空」に起源をもつ「水」は、実は〈私〉たちの外側にあるのと同時に事物の内側にもめぐらされていて、作中世界で「触れることができる」ものたちをうるおしている。
立ち尽くす一生(ルビ:ひとよ)の他はなき樹々よその一本に似ているきみは
(大森静佳「揺れないもの」)
身体(ルビ:しんたい)というからくりに秋の水めぐらせている あなた朽ちゆく
(大森静佳「からくり」)
「樹(木)」と呼ばれる植物や、「器」などと呼ばれるくぼみは、不定形の「水」をその内部に湛えることによって、本来かたちをもたないもの(=「人物」や「こころ」)を生気のあるかたちあるものに踏みとどめておく役目を負っている。作中主体が「バスタブの底」に「みずからの足裏の影」を踏んでいる(「落ち葉」)のはこのイメージによるものだろうし、あるいは「桜の木よりも深くはかなしめず」にいる主体が自身の感情を補おうとするように「白湯」を取りこむ(「揺れないもの」)ようすや、「てのひらに吐き出せそうな感情の沈澱(ルビ:おどみ)」を身体の内に留め置きながら「浴槽」を磨く(「輪郭のつばさ」)とする描写も、おそらくはこの感覚から派生している。
空の摂理と贋作の「鳥」
こうしたイメージにくわえて、それ自身が「水」を張ったひとつの「器」である〈私〉たちに組み込まれた「眼」というのも、いわば「(水)鏡」にも似たモチーフとして「水まわり」の周辺に位置づけられる。
しばらくは眼というぬるき水面に葉影映して君を待ちおり
(大森静佳「晩夏抄」)
雨を映すたび老いてゆく眼でしょうか駅のベンチの背に傘を掛け
(大森静佳「沈めねばならぬから」)
ところで、この二首目の短歌には、「空」からもたらされるものに対する、この主体の認識の仕方がよく投影されている。「眼」が「雨を映すたび老いてゆく」ものと捉えられるのは、そもそもこの歌集の作品世界を支配している摂理として、〈私〉に触れえないところから眼前にもたらされている存在の背後に、〈私〉の意思によっては干渉しえない〈向き〉という要素があるらしいことが深く関わっている。
わたしよりうつくしい眼のそのひとに如雨露のような性欲だろう
(大森静佳「沈めねばならぬから」)
性欲に向きのあることかなしめりほの白く皺の寄る昼の月
(大森静佳「遠近」)
本書でそういった〈向き〉を備えたもののひとつとしてたびたび言及されるのが、たとえば人の性向としての「性欲」である。「性欲」という要素についても、やはり〈私〉の意思によって干渉しえない〈向き〉を備えたものであるがゆえに、「如雨露」から一方的に注がれるようなものとしてまなざされる。
こうした〈向き〉を備えているものに対する関心に通底しているのは、「眼」に映ることと「眼」を向けて見ることとのあいだにあるような、受動と能動とのあいだの差異にまつわる意識だろう。「眼」が(「雨を見るたび」ではなく、字余りのかたちになっている)「雨を映すたび老いてゆく」と語られるのは、「雨」を〈私〉が能動的に見るのではなく、ただ受動的に「眼」に映すことによって、もたらされる〈向き〉にあるがまま従わざるをえないような〈私〉が想起されるからである。だからこそ、この「眼」はここで「雨を映すたび」に「老いていく」という、主体の意思によっては抗いがたい自然の摂理と結び付けられている。
ところで、このような〈向き〉にあるがまま従わざるをえないような〈私〉と対置されるものとして、宙空を重力に逆らって飛翔するものとしての「鳥」(またはその「つばさ」)というモチーフがある。
眼と心をひとすじつなぐ道があり夕鵙などもそこを通りぬ
(大森静佳「沈めねばならぬから」)
かろうじてそれはおまえのことばだが樹間を鳥の裸身が揚がる
(大森静佳「裸身ということ」)
こんなにもさびしさばかり散りばめて街とはつねに鳥の遠景
(大森静佳「揺れないもの」)
川面には鵜の影が来て影だけを見ていればいい訳ではないが
(大森静佳「輪を落とす雨」)
「鳥」は、言うまでもなく、この歌集のなかでやはり頻繁にまなざされる表象のひとつだが、これらは自然の摂理としての重力に逆らう、明確な〈向き〉をそなえて自らの意思を体現するものとして意味を帯びている。あるいは、先ほど取り上げた「赤蜻蛉」のような虫も、「鳥」と同様に、自らの意思によって自然の摂理に逆らって飛んでゆくことができる存在の亜種といえるだろう。そして、それらの虫は、たまたま「鳥」よりも捕まえて触れてみることが容易であるために、実際に「手紙」というイメージに重ねて描かれることとなる。
こころなどではふれられぬよう赤蜻蛉は翅を手紙のごとく畳めり
(大森静佳「秋とあなたのゆびへ」)
こうして赤蜻蛉の翅と手紙とが結び付けられているように、この主体の認識は、おそらく〈ことば〉というものを〈私〉の手もとを起点として自ら〈向き〉をそなえて飛んでいくものと捉えている。その〈ことば〉が飛んでいくようすは、典型的には「鳥」の飛翔に擬えられ、またそれゆえに、明らかに飛ぶことのできないものだろう贋作の「鳥」というのが〈ことば〉に宿るべき意思の働きの不全と関連づけられる。
木製の羽閉じている風見鶏ことばに宿るものなどはなく
(大森静佳「晩夏抄」)
スワンボートのスワンの首よしろじろと反りて水面を見ぬことを選べり
(大森静佳「沈めねばならぬから」)
「スワンボート」の歌は解釈が難しいが、「しろじろと反りて水面を見ぬことを選べり」は、ただあるがまま水面にもたらされている事物の影をあえて見ようとしないさまを語っているものだろう。もちろん、それはこの描写をしている主体の解釈に過ぎず、事物である「スワンボート」に意思などあるはずがないのだが、それだからこそ、かえってこの歌の「スワンボート」には主体の意識がよく反映されているとも指摘できる。この歌は、〈私〉のように明らかに飛ぶことのできないものであっても、ただあるがままもたらされるものを享受するのではなく、自らの意思で〈向き〉を体現できる(あるいはそのような存在でありたい)という主体の意識のあらわれであるのかもしれない。
「(手)花火」の表象・手放される〈ことば〉たち
こうしたイメージとの連関のなかにあってようやく意味をもつだろう重要なモチーフに、〈私〉の手もとを起点とし、〈向き〉をそなえて飛んでいくものとしての〈ことば〉に擬えられる「花火」の表象がある。
この歌集における「(手)花火」というモチーフは、どうやら「晩夏抄」ではじめて登場し、「視界の六月」でも詠み込まれている。
手花火を終えてバケツの重さかなもうこんなにも時間が重い
(大森静佳「晩夏抄」)
擦り切れるほど呼んでほしい手花火が闇に濃度をしんと与えて
(大森静佳「視界の六月」)
これらの「(手)花火」の表象は、しかし、いわば主体の手もとに残されたまま潰えるものの謂いである。二首目の「闇に濃度をしんと与えて」は、おそらく、手花火がそういうものであるがゆえに、届かないものへの触れえなさがかえって意識されるというくらいの意味があり、いずれにせよ、〈私〉の手もとに握られたままの手花火というのは、どれほど熱を帯びたとしても、とうとう〈私〉の手もとで燃え尽きてしまう。
視ることの昂ぶりにいる 空間を圧しながら輪をひらく花火は
わたくしへひらきっぱなしの遠花火、花火へ閉じたきりのわたくし
(大森静佳「鏡」)
一方で、「鏡」にはじめてあらわれる「(遠)花火」は、それ自体が地上から鉛直に揚がっていくような〈向き〉をそなえたものである。ここで「視ることの昂ぶりにいる」のは、それを見ている〈私〉というよりも、倒置で主題に補われている「花火」のほうであり、この主体は〈私〉にまなざしを向けるのにも似た「花火」の散りざまに、自ら打ち揚がり「空間を圧しながら」ひらきゆくというある種の意思の端緒のようなものを見ている。
髪の奥のUピンの熱 かたかたと鳴る夕闇に花火を待った
(大森静佳「歌の眼」)
地上から(たとえば「雨」などとは逆方向に)鉛直に打ち揚がるものとしての「花火」は、〈私〉の手もとにあって熱を帯びるだけの「(手)花火」と対置される。ここで夕闇に待たれている「花火」とは、あるいは「鳥の裸身」が「かろうじてそれはおまえのことばだが」と詠われた(「裸身ということ」)ように、〈向き〉をそなえて自ら宙空を飛んでいくような、意思の宿った〈ことば〉のことでもある。
なお、ここで合わせて注意しなければならないのが、この主体は〈ことば〉のように自らの感覚器官によって感覚しえないものについては、どこか根本的なところで信用できずにいるらしいという点である。この一首で「かたかたと鳴る夕闇に」という一見奇妙なコロケーションが用いられるのは、まだ揚がってもいない「花火」を捉えるべき視覚よりも、いまここにおける〈私〉に感覚しうる音や手触りのほうをこそ、きっとよりたしかな実感をともなったリアルなものと感じるのだろう、この主体の認知的な癖に由来している。
たった一人が味方でしょうかてのひらに昏き心音呼び出しており
(大森静佳「裸身ということ」)
音を感覚する聴覚にまつわる表現は、この歌集では触覚ほどには目立たないものの、実は「てのひら」に近い位置に置かれている。「幼い頃から、怒りや悔しさが兆すとどういうわけか心より先にまずてのひらの芯が痛んだ」という大森の感性が色濃く反映されたこの主体は、〈向き〉をともなってもたらされるものに対するとき、しばしば視覚よりも聴覚や触覚といった他の身体感覚のほうを優位に働かせる。
けだもののように花火は息づいて息の終わりがすこし匂えり
(大森静佳「輪郭のつばさ」)
「花火」が「(けだもののように)息づいて」「匂えり」とするこの一首も、視覚によって捉えられる「花火」の光の描写には向かわない。くわえて、この「けだもののように」という言い回しは、たとえば「花火」の〈向き〉に還元されうるような「てのひら」に兆す熱が、きっと打ち揚げられたそばから〈私〉の意思からは乖離してしまっているのだろう、理性的に捉えられないものであることと呼応している。
言葉にわたしが追いつくまでを沈黙の白い月に手かざして待てり
(大森静佳「輪郭のつばさ」)
自身の〈ことば〉に身体感覚が追いつかない感じとでもいうべきだろうか、〈私〉から〈向き〉をそなえて放たれるべき〈ことば〉は、この主体にとってたしかにこの「わたし」を起点とするものでありながら、「わたし」の意思によってはもはや干渉できない空間へと向けて手放される。「輪郭のつばさ」でこの主体がわざわざしく「白い月」に〈手〉をかざしてみせるのは、「空に仄白くあいた穴として」の「昼月」が「わたし」が送り出す〈ことば〉に宿るべき〈向き〉の源泉の象徴だからだろう。
『てのひらを燃やす』には、心情や感情が直接的な主題にされている短歌が少なく、あったにしても「かなしみ」や「さびしさ」といった名詞形が用いられる場合がほとんどである。〈私〉の想いよりも事物の描写に近い表現に軸足が置かれるのは、もっぱら大森という作者の特徴なのかもしれないが、この主体がほとんど例外的に直接的な感情語を口にするのは、たとえば、先ほども見た次の一首くらいではないだろうか。
性欲に向きのあることかなしめりほの白く皺の寄る昼の月
(大森静佳「遠近」)
ここにも、すでに「昼の月」が昇っている。もちろん「空」の世界に浮かぶ「月」は実際に触れられる手立てのないものだろうが、ここでは「皺の寄る」というその感触を予感させる描写がなされているぶん、触れられないながらにまだしも身体感覚までの距離が近い。
ここまでのまとめ
〈私〉に触れえないものは、〈私〉によっては干渉できない仕方ながらも、たしかに存在している。〈私〉たちは、そうした存在に「手」を伸ばす。そこにあるのは、たとえ、現在のこの〈私〉には触れえないものであっても、いつかは、それらをたしかな「リアリティ」をともなって受け止めることができるようになるかもしれないという、未来の〈私〉に対する強かな期待だろう。
『てのひらを燃やす』の全体を通じたテーマのひとつとなっているのは、言ってしまえば、視覚的に目に見えるかたちをそなえていたにしても、そのかたちと正しく対応するような感触がえられないようなある種の存在と、〈私〉の身体感覚(「リアリティ」)とのあいだの遅延についてである。このしばしば決定的な遅延をともなう世界観を端的に言い表しているのが、「言葉にわたしが追いつくまでを沈黙の白い月に手かざして待てり」の一首であり、そこではある種の〈ことば〉のほうが身体的感覚よりも先行するような場合が見受けられる。
ところで、歌人たちがこうして触れえないものの感触を求めようとするとき、私たちはそれを、〈私〉たちの「リアリティ」を求める思いの切実さがそうさせるのだと解釈しがちかもしれない。
現代短歌、ことに近年の短歌はリアルであることを、それ以前とは異なる切実さで求めるようになっている。それは、手触りや実感の希薄な現代という時代の求めでもある。事物の感触の薄くなった生活、ネットという、人間の五感から遠く離れた世界が今や私達の生活の中心を動かしているという現実もある。文芸はそうした感官をすり抜けてゆくもの、「今」からこぼれ落ちるものを掬おうとする衝動を常に抱え持っている。
(川野, 2015)
もちろん、こうした指摘には肯ける部分もあるし、このような切実さを実際に抱えている人がいるかもしれないことを否定はしない。しかし、こうした「リアリティ」という点に根ざした説明は、依然として何かを取りこぼしているような気もしている。
それは、おそらく端的には、「リアリティ」をともなわないというそのことの意味――現代社会にあって「この〈私〉には触れえない」という仕方で立ち現れる事物の〈私〉たちにとっての意味である。「リアリティ」をともなう・触れることができるというのは、現代の〈私〉たちにとって、なぜ、どのようにして意味をもつのだろう。
参考文献
- 大森静佳 2018 『てのひらを燃やす』 角川文化振興財団
- 川野里子 2015 『七十年の孤独 戦後短歌からの問い』 書肆侃侃房