短歌を鳴らす、それも「ことば」でなく「音」として

「よむ」こととキャッチボール

短歌を詠む/読むことは、キャッチボールすることに似ていないだろうか。

は? そんなわけないだろうと感じたあなた。その感覚は、ある面では間違っていない。ことばによるコミュニケーションが「キャッチボール」に喩えられることはよくあることだが、率直に言って、私はあの喩え方が嫌いだ。これはたぶん、私の運動神経が壊滅的で、キャッチボールというゲームによい印象を持っていないせいでもある。

けれども、残念な(?)ことに、短歌を詠む/読むことは、たしかにある面ではキャッチボールに似ている。私たちが投げかける言語表現というのは、実はそこでやりとりされる物体としてのボールではなく、私たちのそのたびごとの投球になぞらえられるものだからだ。

たとえば、相手が向こうからボールを投げたとする。私はそうして投げられたボールをキャッチして反応する「ナイスボール!」――このとき、私が「ナイスボール!」と評価したボールは、このわずかに土で汚れたどこにでもあるような野球ボールのことなのではない。相手が私に投げた球、その球を投げた彼の投球行為について、私はコメントをしたのだ。そこで唐突に物体としての白球のシームの美しさに心打たれ、その点について「ナイスボール!」とコメントしたのではない。

あるいはあなたは、自分は短歌を読むとき、純粋にその作品のことばとしての意味だけを読み取るように注意して、そのうえで評をおこなっていると主張するかもしれない。しかし、それは欺瞞というか、もちろんそう信じているのならそれでもかまわないのだが、そうであるとすれば、あなたはここでおこなわれているゲームの意味を誤解していると思う。

短歌を詠む/読むことはやはりキャッチボール的な相互行為なのであって、そこでおこなわれていることは、ボールコレクターたちが自らの選りすぐりのボールを見せあい、それぞれのボールという物体について言及しあう品評会なのではない。

私たちは短歌をその言語表現を投げかけた人物による行為と見なして評価している。(あえて奇妙な言い方をするが)その意味で、短歌は、あまりにもことばに似すぎている。ことばはふつう、ひとりでに湧いてくるようなものとは見なされないから、そうしたことばらしきものを目にすると、私たちはその表現を繰り出した人間の姿を予期してしまう。突然何もない空から野球ボールが降ってくることはありえないと信じてやまないように、ボールが飛んできたのだとすれば、これを投げた人間がいるはずだと考える。このボールはいったい何なのか。誰が、何のために投げたのだろうという推理がはじまる。

短歌するがキャッチボールはしない

とはいえ、だ。

「短歌を詠んだりはするけれど、そもそもキャッチボールをするつもりはなかった」という人もいてもいいと思う。私たちはそれを壁打ちと呼んだりするのかもしれない。あるいは、そういう自分とのキャッチボールみたいなものですらなく、つくってはみても、誰かに読まれることは意図していないような表現。

たとえば、短歌をつくるという過程こそがその人にとって重要なのだとすれば、結果的にできあがった作品を誰かに読まれる必要はない。そこに相互行為的なおもしろさは少ないかもしれないけれど、書く行為自体に一定の意味があるというのもまた事実だろう。たぶん誰にも読まれないし、きっと自分でも読み返さない秘密の日記を書くようなものだ。それでも、それを書いたという記録は手もとに残される。

そうやって、いわば「キャッチボールするように短歌する」ことから確実に逃れるためには、しかし、何をどうすればいいのだろう。もちろん、本当に秘密の日記帳を用意して文字を書き溜めていってもよいと思う。私は別のやりかたを思いついた。一度できあがった短歌を、ことばではない形式へと機械的に変換してしまえばいいんだ! 短歌形式であることの意味? そんなものは知りません。

実際に、これをやるための簡単なWebページを作成した。Windows上のChromeで動作確認している。AndroidのChromeでも開いてみたけど、上手く動作しなかったので、試すならパソコンからやってみるのがよいと思う。

このWebページでは、短歌のようなごく短いテキストをベースに可聴化することによって、Standard MIDIファイルを生成してダウンロードすることができる。これで生成したMIDIファイルは自由に利用してもらってかまわない。MIDIファイルを開けるソフトウェアで音色を指定したりすることによって、たとえば次のような音源を用意することができる。

このmp3は、私がつくった短歌をもとに可聴化したMIDIファイルについて、OpenUtauを使って音色を指定したりして加工したもの。自作の短歌から変換したものだが、どの短歌から可聴化したのか忘れてしまったので、作者である私にも元のことばとしての意味を復元することはできない。つまり、「ことば」としての内容はもはや本当になんだったかわからないのだが、「音」としては再生できる形式になっている。そういう作品だ。

さらなる可聴化のヒント

技術的には、もともと手もとにあった大量の短歌のデータを元に作成した埋め込みから、入力とした文字列に対応するパラメータを求めて、それらのパラメータをMIDIノートにマッピングするということをおこなっている。埋め込みの作成にあたっては、短歌の文字列をMeCabなどを使いつつASCII文字だけのかたちに開いたうえで、BytePairEncodingを使ってサブワードに分割し、GloVeを使って単語埋め込みを取得、得られた単語埋め込みをPCAして圧縮した行列を埋め込みの代わりとしている。

これでMIDIファイルに変換した短歌が依然として短歌として読まれうるものなのかは、正直なところよくわからない。これを使って作成したMIDIファイルを試聴したのだとしても、「ことば」は「音」へとアルゴリズミックに符号化されてしまっているから、それを言語表現として受け取って評価することはできないだろう。一方で、そういう「音」を提示する行為として評価することはできそうではある。それがまだ「短歌を読む」と言ってよい体験なのかは、よくわからないが。

いちおう断っておくと、文字列としての自然言語のテキストを「音」に変換するというアイデアは、現代アートの世界を見渡せばそれほど目新しいものではない。たとえば、本邦のアーティストとしては、Ryoji Ikeda(池田亮司)による作品の中にテキストをもとにして「音」を鳴らしているような作品があると思う(”superposition”がそうなのかはよく知らない)。

また、文字列をデータとして扱うという点では、Alva Noto(Carsten Nicolai)の一部の楽曲や、Jörg Piringerの”unicode”のような例もあったりする。

This article was updated on 1月 4, 2026