夜の世界に夜明けを運ぶもの(酒々井知央『ショート・コント』評)

はじめに
本文では、酒々井知央『ショート・コント』のなかから「君が世界征服するより、速く」という連作を取りあげる。酒々井の第一歌集『ショート・コント』は2021年3月に刊行された。しかし、同書はカテゴリとしてはたしかに歌集として出版されたものに違いないものの、酒々井知央という作者のやや独特なバックグラウンドもあってか、歌壇においてはまだほとんど紹介されていない。
酒々井知央(しすい・ちひろ)は、1993年生まれで、2017年に早稲田大学文化構想学部(文芸・ジャーナリズム論系)を卒業している。よく知られているように、早稲田大学には公認サークルである学生短歌会が存在するが、酒々井は同学の短歌会とは無関係の人物である。学生時代の酒々井は、空間展示的な現代アートを手掛ける広義の演劇系サークルに所属していた。酒々井はそこで、いわゆる「歌人」としてではなく、主にことばを扱うインスタレーション作家の一人として在学時から注目された存在だった。
「君が世界征服するより、速く」は、酒々井が2015年に発表した同名のサウンド・インスタレーション作品の朗読台本である。『ショート・コント』のなかでもページの大部分を占めているこの連作は、もともと演者によって音声化されることを意図して編まれたものであり、したがって、短歌連作というよりは戯曲といってしまったほうが正確なのかもしれない。実際、この連作は読者向けの「詞書」ならぬ演者向けの「ト書き」を多用して書かれており、歌集としての『ショート・コント』のなかにもそれらがそのまま収録されている。
サウンド・インスタレーションとしての「君が世界征服するより、速く」は、半径五メートルの円形の展示スペースの中心に向けて三台のパラメトリック・スピーカーを配置した音声作品である。円形の展示スペースは、展示室の床面よりもやや高くなっている高座だが、周囲を囲う壁などはない。高座には超志向性の音声を正しく聞くことができる「立ち位置」を指示した目印が設置されており、鑑賞者はそこに正しく立ち入ることによって、はじめて音声を聞くことができる。
音声の内容は『ショート・コント』に収録されているのと同じ短歌連作だが、流されていた音声は掲載順そのままではなかった。それぞれの短歌が読み上げられる順序や、三台のうちのどのスピーカーから流されるかはどうやら完全にランダムだったようで、個々の朗読音声どうしには文脈的なつながりはない。連作冒頭のト書きによれば、本作は三人の役者で演じられる作品らしく、実際に男性の声と女性の声を聞くことができたのだが、役者とスピーカーの対応が固定されているということもなかった。
「君が世界征服するより、速く」をサウンド・インスタレーション作品として取りあげた記事は、展示がなされた直後からすでにいくつか書かれている。一方で、この作品を短歌連作(展示に設置されたパネルのなかで酒々井自身が本作を「短歌連作」であると明記していた)として読み解こうとした試みは、管見のかぎりでは存在しない。
もちろんそれは、同作がインスタレーションとして製作されたものだったため、展示スペースを離れて言われていることの内容を詳しく検討するのが難しかったという事情もある。だが、それだからこそ、本作が『ショート・コント』という歌集に収録されたことを機に、あのとき・あの地点で言われていたことは、短歌としていわばようやく日の目を見ることになる。
舞台設定について
連作の先頭に置かれているのは、次の一首である。
(その夜明け、嘘。)というなら、ほんものの朝もどこかにあるはずだよね
まずはじめに、ここに見える「その夜明け、嘘。」という表現が、福原充則による舞台作品からの引用であることを指摘しなければならない。福原充則『その夜明け、嘘。』は、TBSの企画制作で2009年に初演され、翌年の第54回岸田国士戯曲賞の最終候補となった脚本である。この公演は福原充則自身が演出を手がけ、キャストとして宮﨑あおい・吉本菜穂子・六角精児の三人を迎えて、青山円形劇場で上演された。
福原充則『その夜明け、嘘。』は三人の役者によって演じられる芝居だが、内容としては十数人の人物が登場し、いくつかの場面状況におけるそれぞれの登場人物たちのドラマが目まぐるしく交錯する「群像劇」である。当時の公式サイトに掲載されていたあらすじは次のようなものだった(公式サイトはドメインが切れているため、ここでは「渋谷文化プロジェクト」内に残っている当時の公演情報から転載した)。
その漫画家は、環状七号線を走っていた!
締め切り前夜。
白紙の原稿をロバに積み、情熱の炎をランタンにして、
無能なアシスタントを従えた、そんな漫画家が走っていた!
月の砂漠の環七を、アイデアを求めて漫画家は、西へ東へ海底2万マイル!
西部の荒野の宇宙の果てで、スフィンクスと決闘しろ!
「あぁそんなストーリーじゃ、とても締め切りに間に合わない!」
そうしてその漫画家は、バス停のベンチに腰掛けて、目から水晶の涙をこぼすので、
王女の呪いは霧散して、代わりに村人全てがゾンビ化した!
深夜の環七を舞台に繰り広げられる、十数人の群像劇の三人芝居!
もっとも、これだとどんな話なのかさっぱりだろうと思われるので補足しておくと、『その夜明け、嘘。』に描かれる主要な場面状況のひとつは、締め切りを抱えた新人漫画家(宮﨑あおい)が彼女のアシスタント(吉本菜穂子)を連れて、自転車で夜中の環状七号線をひた走るというものである。この二人を探して漫画家の担当編集者(六角精児)が七号線を追走するのだが、これらの場面状況とあわせて、同じ沿道に位置するのだろう中華レストランからはじまる別の人物らの物語なども並行して展開される。それらの複数の物語はやがて七号線という地点上で運命的に交差し、最後には夜が明けて、舞台は終わる。
酒々井知央の「君が世界征服するより、速く」は、実は、明らかにこの戯曲のオマージュとして構成されている。作中主体が「自転車」で夜の首都圏を走るようすを主軸としながら場面が転換していくさまや、舞台がそのまま「月の砂漠の環七」と詠まれていることからも、この点は決定的な要素と見なして間違いないだろう。
東京のひかりあつめて燃えてゆく 自転車はきっとレーザービーム
くろぐろと月の砂漠の環七の舗装のたしか すすめ、まっすぐ
一方で、本作は『その夜明け、嘘。』のように「群像劇」と呼ぶべきほどには複雑な構造をしていない。「君が世界征服するより、速く」では、それぞれの短歌は、三人の役者のうち、誰によって読み上げられるのかをあらかじめ指示されていた。一般的な戯曲のようにそれぞれの台詞に人物名が付記されているわけではないのだが、奥付の記述によると、実際の台本でもどの一連を誰が読むのかは台本上で区別できるようになっていたらしく、『ショート・コント』への収録にあたっては各役者への割り当てをまとまりごとの字体の違いによって表現したのだという。
これを参考にしつつ、それぞれの役者に当てられたまとまりに注意して読むかぎり、本作に登場する一人称はどうやら三人だけであるらしい。すなわち、二名の女性の役者に対応し、表記のうえでも明確に区別されている「私」「わたし」と、両者から「君」と呼ばれていて、一人の男性の役者に対応すると思われる「僕」の三人である。ようするに「君が世界征服するより、速く」では、三人の役者と演じられる役はそのまま一対一で対応しており、その点は『その夜明け、嘘。』に見られた「群像劇」よりもシンプルな構造になっている。
実際、連作全体を通じて描かれる物語の主軸も、二人の「私」と「わたし」との書き分けにだけ注意すれば、とくに苦労せず読み解くことができる。簡単にまとめてしまうと、本作は「私」が渋谷に象徴される都心に来たるべき夜明けを運ぶために、おそらく世田谷区の近辺から、環状七号線を大回りして葛西臨海を目指す物語だといえるだろう。
その象徴的な意味はひとまず措いておくとして、「君が世界征服するより、速く」の作品世界では、都心は夜闇の内側に閉ざされている。そこで「私」は、都心の東に位置する手近な海辺である葛西臨海まで「自転車」で回り込み、そこから「小さな夜明け」を打ち上げることによって、都市にあるべき夜明けをもたらそうとする。
汐風の広場を抜けて 西なぎさから打ち上げる小さな夜明け
ここに見える「汐風の広場」「西なぎさ」とは、いずれも葛西臨海(葛西臨海公園・葛西海浜公園)に実在する地点の名前である。公園内には「夜明け」が打ち上げられるのにもっとふさわしいだろう「東なぎさ」という場所もあるのだが、埋立地として整備されたこれらの「なぎさ」のうち、「東なぎさ」については、環境保全区域として立ち入りが制限されている(そもそも「東なぎさ」には陸から渡っていける橋がない)。これが「小さな夜明け」を打ち上げる大回りの終着点が、都心の東なのに「西なぎさ」である理由なのだろうが、このことは同時に、「小さな夜明け」が依然として自然の夜明けからは二重三重に歪められたものであることをかえってよく演出するものになっている。
遮断器じゃヒトはとまらない!
「君が世界征服するより、速く」では、環七の大回りのようすに差し挟まれるようにして「わたし」や「僕」によって語られるさまざまなモチーフが、その世界観に独特な奥行きを与えている。そして、それらのモチーフは本作のフィクショナルな世界観をなんとなく演出するという以上に、かなりの部分が意図的に埋め込まれたものであるように見える。この連作には、言ってしまえば、いわゆる「セカイ系」的なモチーフ――具体的には、新海誠が2010年代中ごろまでに手がけた長編アニメ作品のなかでとくに重要な意味を担っていたモチーフが随所に散りばめられているのである。
周知のように「セカイ系」という括りは、もともとゼロ年代のアニメ・漫画などを扱うサブカル批評のなかで用いられたものだった。それらは、典型的には高橋しん『最終兵器彼女』のように、「きみ」と「ぼく」とのあいだの関係性を二人にとって切実なことと見なすことが、かえって「セカイ」そのものの命運を左右してしまうような物語群を指すとされている。もっとも、その実態はより漠然としたものに過ぎず、多くはゼロ年代以後の物語について批判的に言及する文脈で都合よく用いられていた、それ自体「ゼロ年代の想像力」の生み出した想像上のジャンルという側面もあった。
「君が世界征服するより、速く」をとりわけ新海誠作品の流れを汲む「セカイ系」の変奏と位置づけてしまえば、次節で述べるように、夜に覆われた都心において「僕」が「塔」を「真昼の花火」によって壊していることの象徴的な意味が明らかになるだろう。むしろそちらのほうは比較的容易に解釈を与えられるモチーフなのだが、一方で、あまり目立たない要素でありながら、非常に重要な意味があるはずだろう〈踏切〉の描写についても、この時点でにわかに存在感あるものとして浮かび上がってくる。
号砲は鳴らない(待っちゃいられない)遮断器じゃヒトはとまらない!
「私」の歌として当てられたこの一首は、勢いこそ感じられるものの、一見奇妙な内容に見える。作中で〈踏切〉が出てくる短歌は連作全体を通じてもこれだけなのだが、そもそもなぜ、「私」がこれから環状線という道路を自転車で走っていこうという物語の序盤に〈踏切〉の描写が置かれているのだろうか。
まず、この〈踏切〉がどこなのかを同定するには、若干の土地勘が要求される。作中に「環七」という語は繰り返し出現することからも、本作の舞台が環状七号線であることは明らかなのだが、全長五十二キロにもわたる実在の環七通り上に〈踏切〉は実は一箇所しか存在しない。それは東急世田谷線を跨ぐもので、通称「若林踏切」と呼ばれている(先ほど「私」の大回りがおそらく世田谷区の近辺からスタートしていると指摘したのは、若林踏切が世田谷区に所在するものだからである)。
ところが、この〈踏切〉が若林踏切なのだとすると、「遮断器じゃヒトはとまらない」という言い方はいわば叙述トリックのようなものに過ぎなかったことに気づかされる。若林踏切は、交通量が多い環状線と交差する都合上、線路ではなく道路側の通行のほうが優先されるという特殊なものだ。そのため、それを知らない人には珍しいだろう光景として、若林踏切にはそもそも「遮断器」は設置されていない。この〈踏切〉を横断するのに一時停止する必要はなく、したがって、ここで「ヒトはとまらない」のは実のところ当たり前のことなのである。
ここにあって〈昼〉の時間にも停まらずに横断できる〈踏切〉を「私」が勢いよく通過していく描写は、本作が〈夜〉の時間の物語であるがゆえに、電車が運行されていないという事情を超えた特別な意味を帯びてくる。というのも、新海誠は〈昼〉の世界・現実的なものを象徴する〈都市〉と、〈夜〉の世界・想像的なものを象徴する〈地方〉という対立を好んで取りあげるのだが、彼の作品に決まって登場する「鉄道」とは〈地方〉を〈都市〉にまで結びつけている回路であり、翻って〈踏切〉は〈昼〉の世界にあってなお埋めえない〈夜〉の世界との断絶をこそ予感させる装置であるからだ。
〈踏切〉が断絶を予感させるというのは、たとえば『秒速5センチメートル』の作中において効果的に用いられた演出だったことは言うまでもない。一方で、新海誠が思い描く「鉄道」とその断絶にまつわるイメージは、彼の事実上初の監督作品である『雲のむこう、約束の場所』のときから、一貫して変わらないものでもある。あのアニメ映画の舞台となった本州最北端としての青森は、本来であれば、その向こうにまで〈都市〉的な世界と連絡しているべきはずだった「鉄道」の途絶えている最果ての地だった。だからこそ、あの物語では、史実ならばそこから青函トンネルが掘られていたはずの工事現場跡が主人公たちの思い出の場所となっていたのであり、海峡を隔てた先には異邦の地となった蝦夷があって、そこには〈夜〉に見られる「夢」によって〈昼〉の世界をまるごと置き換え、侵食しようとする、あの「塔」がそびえていたのである。
十四不塔とは何か
「私」が乗る「白いビアンキ」が、たとえば「翔けてゆく」などと詠われ、より直接的には「ヴェラシーラ」というルビまで振られている(「自転車」だと音数が合わないことから、この箇所は本当にそう音読されていたのだと考えられる)のは、本作における自転車が『雲のむこう、約束の場所』に描かれた同名の飛行機とよく似た期待を託されているからだろう。この「自転車」――断絶をものともせず飛び越えていくために必要とされたある種の「力」の象徴であるそれは、まさしくその意志を体現するように、力強く〈踏切〉を越えていく。
さて、本作をこうして「セカイ系」作品の変奏として読むとき、やはり無視できないのは「塔」の存在だろう。
かりそめの夜の帳を張り結ぶ あるべからざる『十四不塔』
ここで「十四不塔」で呼ばれているものは、作品世界に建っている一群の「塔」の総称であるらしい。「十四不塔」とは、本来は麻雀におけるマイナールール、いわゆるローカル役のひとつである。麻雀は、各対局ごとに、配られた手牌から十四枚一組の役を組みあげるゲームだが、はじめに配られた手牌が役の成立までには程遠い場合、まともにゲームを進行するには不利になりすぎてしまうことがある。「十四不塔」は対局のはじめに引いた手牌の中身がまったくバラバラだったときだけ成立する救済措置的な役のひとつなのだが、これは「十三不塔」というよく似たローカル役よりもさらにマイナーなもので、その認知度はおそらくきわめて低い。
君たちがハチ公前でぶち上げた真昼の花火に燃え落ちる樹々(トウ)
本作が現実世界の都心の地理に執拗にこだわっている一方で、この「塔」だけは「セカイ系」的なフィクションの世界に取材して持ちこまれたもの、確かに実在しない構造物のように思われる。言わずもがな、これらの「塔」は〈昼〉と〈夜〉とを入れ替えて見せている想像力の象徴であり、実体として「夜の帳を張り結ぶ」ことによって、都心を覆う「かりそめの夜」を支えている。「君たち」(つまり男性である「僕」)はそれら破壊されるべき対象としての「塔」を壊して周っていて、それが正しく「あるべからざる」ものとして十四基存在しているがために、作中では麻雀役に引っかけて「十四不塔」と呼ばれているのである。
といってみたものの、しかし、本当にそうなのだろうか? そもそも、この架空の「塔」は、なぜ十三ではなく「十四不塔」なのだろう――これは一見バカバカしい問いに思われるかもしれないが、おそらく無意味な疑問ではない。先ほど述べたように、「十四不塔」は、麻雀のマイナールールのなかでも「十三不塔」よりさらに輪をかけてマイナーなものだ。つまり、仮に十三でも十四でも数字のうえでは大差ないのだとしたら、かえって本当に十三のほうでもよかったはずなのである。実際、十四基の「塔」が作中で律儀にひとつずつ壊されていくようすが描かれるといったことはなく、この数字はいかにもどちらでもよさそうなものに見える。それでもここであえて十四が選ばれたのだとしたら、その背景には何か特別な事情があったのではないのか?
はたして、現実世界の都心には、計十四本だけが建てられた「塔」というものが実在する。本作における「十四不塔」のモデルのひとつとなっているのは、現実世界では山手通りや環状六号線などに所在する十四本の換気塔だったのではないだろうか。
「中央環状線山手トンネル」は、首都高速中央環状線のなかでも、大井JCTと高松入口とのあいだを結んでいる地下トンネルである。2007年にはじめて開通したのは西新宿JCTから熊野町JCTまでの全長十一キロほどの区間だったが、その後徐々に延伸されながら現在の形に整備された。開通当初の時点では、計七箇所の換気所にあわせて十四本の換気塔が建てられていて、これらの換気塔の意匠は山手通り周辺の都市景観に配慮したものとして、2008年度のグッドデザイン賞を受賞している。
必要悪ともいえる困難な課題に対し、緻密なデザインで慎重に取り組んでいる点が評価できる。換気塔そのものの存在否定論は多いが、作らざるを得ないものに対し「より良い」解答を求めた努力に讃辞を送りたい。
審査委員らのコメントにも見えるように、都市空間の中にある「塔」という存在は、記号的にも「必要悪」と見なされやすい。都市の巨大な構造物は、私たちの素朴な暮らしがある「セカイ」の中にいわば異物として突き出したもので、それらは実際に私たちの日常生活を支えていると同時に、暮らしが営まれる私的空間のなかに人知れず侵出しようとする「社会」なる公的空間の権力をその威容をもって象徴する。
そうした「塔」は、そのデザインの都合上、周囲に圧迫感を感じさせないためにおおむね「白」を基調として、変わりゆく都市の雰囲気に依存しない無機質的な意匠へと漸近する。
新宿の地下ダンジョンを根にもって不夜城の樹は白亜のすがた
本作に見える「塔」はときに「地下ダンジョンを根に」そなえた白色の「樹」のイメージに重ねられる。「地下ダンジョン」というそれ自体ひとつの「夢」に過ぎないかもしれないものを基盤としてそびえ立つ「塔」は、しかし、そうしてそこに存在することによって「かりそめの夜の帳」を張り結び、都心に〈昼〉の時間をもたらしている。一方で、その基盤というのは結局、それ自体ひとつの「夢」に過ぎないかもしれないものであるがゆえに、「君たち」はその虚構性を暴くべく「塔」を壊そうとしているのである。
もちろん、こういった解釈は連想にしても度が強すぎるというか、さすがに恣意的なものである印象を免れない。だが、それでもあえてこの解釈を推したいのは、この実在の換気塔に託されるモチーフが、なぜ「私」は世田谷区から葛西臨海を目指すのにわざわざ環七を辿って迂回しているのかというパズルを埋める格好のピースとなりえるものだからだ。
環七はやがて光の川になる 君が世界征服するより、速く
連作のタイトルに採られている「君が世界征服するより、速く」はこの一首からきている。ここで注意しなければならないのは、都心が「不夜城」とも詠われる〈昼〉の時間のなかにある一方で、「私」の走る環七が〈夜〉の時間のなかに置かれていることだ。これは、おそらく、ただ単に作中で描かれている場面・時間設定が異なるためではない。「君が世界征服するより、速く」目的地に辿り着くことが目指されている「私」の物語は、「君たち」が「塔」を壊していく物語と同時進行している。つまり、「私」があの大回りを演じている背景には、もちろん深夜にあっては葛西臨海まで行くための「鉄道」が動いていないからというもっともな理由もあるのだが、それよりもここでは、主要道としての環状七号線が「塔」の所在しているだろう中央環状線のちょうど外側にあって、都心をパラレルに取り巻いているという具体的な位置関係こそが重要なのである。
読まれるべきことばたち
ここまでのこの文章は、第2回BR賞(現代短歌社)に向けて執筆したブックレビューをもとに大幅に加筆・再構成して書かれた――といった事実はとくにない、ただの書きかけの異常論文だ。
「異常論文」という語は、樋口恭介らの呼びかけで『SFマガジン 2021年06月号』誌上で特集された一群の文学作品の呼称であり、内容としてはルイス・ボルヘス『伝奇集』やスタニスワフ・レム『完全なる真空』を思わせる、評論や論文に近い文体で書かれた幻想文学のようなものをいう。つまり、ここまでに取りあげていた「酒々井知央」なる歌人とその創作物及び関連する団体などは架空のものであり、実在する人物や既存の作品・その他の固有名とは一切関係ない(というか、この文章はほかにも意図して嘘を交えながら書かれているため、読者にはあまり真に受けないでもらいたい)。
一方で、以下に挙げる資料・文献については現に実在するものを参考にしていた。これらの内容の引用にあたってはとくに細心の注意を払っているが、当該の引用にかかる不備に関しては、すべて私の責任によるところであることを明記しておく。
テキストファイルの作成日時を確認するかぎり、私がこの文章を書きはじめたのは2022年6月ごろのことだったらしい。当時何を考えてこれを書きはじめて、それから何を考えていたのだったか、今となってはもうよくわからないが、結果として、これは異常論文としては完成しないままだった。理由はなんとなく察せられる。一言でいえば、飽きてしまったんだろうと思う。
だって、本当はいもしない歌人の作品について一生懸命考えたって、実在しないのだからしょうがないではないか。それは何も短歌にかぎった話ではない――この世界には、もっとほかに正しく読まれるべきことばがきっとたくさんあるはずであり、そうしたことばたちを差し置いて、実在する誰の想いにも接地しない架空のことばについてあれこれ考えをこねくり回すということは、私自身にとっても、また、この異常論文の読者にとっても、いかにも無価値なことのように思われた。
素朴な思いとして、世界というのは、きっと幾許かでも「よりよい方向」に向かって進むべきはずのものであり、だから「で?」みたいなことをするのは端的に言って時間の無駄だ。私は、それが書かれることによって、私自身や、誰かの人生がわずかでも豊かになるようなことばを書きたいと願っていた。
しかし、だからたぶん、酒々井の「君が世界征服するより、速く」について論じてみせようとしたのは、行き先を失った皮肉のつもりでもあった。この作品は、正しく受け取られるために、聞き手に「立ち位置」を指示するものだったからだ。テキストファイルに残されていた断片的なメモを見るかぎり、私の構想のなかで、この作品はある種の「希望の物語」として上演されるものである一方、それが確かに意味ある物語として聞き届けられるまでには、ハードな条件を要請している。
物語はただそこに示されてあるというだけで、ただちにあらゆる人々にとって意味をなしうるようなものではない。物語とは、よくもわるくも、ただ動かしがたい事実として示されるものでしかなかった。酒々井自身がこの点をどう思っていたのかは計りかねるのだが、本作が半径五メートルの高座上のなかでも、さらに局所的な地点でしか正しく聞かれえない音声作品だったことは、短歌として言われていることを超えたところで何かを示そうとしたものだったように思われる。いわずもがな、「半径5メートル」という言い方は、昨今の自己啓発ブームのなかにあって、自らの意志の力ではたらきかけることが可能なミニマルな世界――地に足を付けたまま立っていられる私的領域の謂いとして、繰り返し喧伝されてきた表現だからだ。
実際、少なくない読者は私の「素朴な思い」に共感するかもしれないが、でもそれだからこそ、あらかじめ可視化されているのではないことばに対しては、しばしば驚くほど無関心だ。この世界には、正しく読まれるべきことばがきっとたくさんあるはずなのに、彼らは(きっと私自身だって)余程お膳立てされでもしないかぎり、そうしたことばについてあえて時間をとって取り合ったりしない。
この異常論文のなかで主要なキーワードとなっているのは、言わずもがな〈夜〉という語であり、私自身のメモによると「君が世界征服するより、速く」のト書きには「暗転」ということばが頻出するという。いわく「舞台とは常にその外部に広がっているひと回り大きな暗転に取り巻かれている場所」なのだそうで、まあ実際のところ、この現実世界はそんな茫洋とした「暗転」の内部に存在しているものなのだろう。誰だって自分の身の回りの小さな物語を持ち堪えることばかりに必死で、その外側にいる他者のことなんて、ここから一歩踏み出せば闇の中だ。
亡国の朝焼けに燃ゆる観覧車(、の影。)なぎさをあかるくすべる
もちろん、今になって好意的に考えるなら、それはむしろそういうものであるがゆえに、この人物は、打ち上げられた小さな夜明けに照らされる観覧車を「あかるくすべる」ものとして詠んだのだろう。が、そうは言っても調子が悪いとどうしたって厭世的な気分になるのもまた事実であり、私がわざわざこの架空の連作を必死に妄想した背景には、本当だったらこういうことばこそが読まれるべきはずだろうに、どうしてこの世界の人たちはこんなにも他者のことばに対して無関心なのだろうという、憤りのような感情があったのだと思う。
この暗転を埋めるもの
まあ、最近は調子がよいので、というか、体調こそしばらくのあいだかなり悪かったのだが、しかし、久しぶりにテレビアニメを観たりなんかして、考えがすこし穏やかになった気がする。以前の私だったら、確かに、実在しないものについて想像力をはたらかせたって時間の無駄じゃないかと考えていただろうが、その点は考えが変わった。
私たちが「暗転」の中に沈んだ世界について想像力をはたらかせるのは、それが実在する世界のことだからではない。私たちが人間だからだ。〈夜〉の世界に生きるその声の主が本当に実在する人物なのかは、別にどうでもいい。実在するのならこの現実世界で私たちにできることを考えればいいし、たとえその誰かが実在しなかったとしても、そのことばに共感した気持ちまでもが嘘になるわけではない。
私たちはしばしばそういう二者択一に惹かれるが、そもそも、どこへ夜明けを運んだところで、それでこの地球上から立ちどころにすべての夜を消し去ることができるわけでもないだろう。〈昼〉か〈夜〉かという対立は所詮は立ち位置に依存する問題にすぎず、誰かにとって当たり前な〈昼〉の世界とは、きっとまた別な誰かにとって想像だにしないような〈夜〉の世界であるに違いない。「文語短歌の本質が〈抒情〉という点にあったとすれば、現代口語短歌の隆盛は折々の暮らしに都度「けり」をつけていく契機の喪失」とは、ある今は亡き現代歌人のことばだが、仮に一つの〈夜〉の世界に綺麗な「けり」を付けられたところで、この構造自体が解消されたりする見込みはないのだ。
(その夜明け、嘘。)というなら、ほんものの朝もどこかにあるはずだよね
それでも、この人物は誰かにとっての夜明けを打ち上げるため「なぎさ」に向かう。これは根本的に全部が嘘にもとづく話だけれども、でもこの共感は、確かに私の本物の気持ちだ。誰かにとって文字どおり嘘にすぎないことであっても、それを誰かが聞き届けるかぎりは、少なくともそれはことばとして聞かれることになる。そうやって耳を傾けられているあいだ、ことばは確かに本物だろう。あるいは、そうしてはじめから嘘にはしてしまわないために、私は、この声をきちんと聞いていたいと思ったのかもしれない。
『ショート・コント』の表題になっているのは、「君が世界征服するより、速く」よりも後に発表された、そのまま「ショート・コント」というタイトルの連作だ。別にそんな設定は考えていなかったが、これはきっと、特別に引きたいような歌もない、ごくありふれた日常詠ばかりを収めた連作だろう。
どれだけ執拗に現実に接地しているふうを装って、どれだけ切実に想像力をはたらかせたところで、その物語が埋め込まれた舞台から離れてしまえば、またそれぞれの温度感で日常がある。この「日常がある」というのは、虚構だから欺瞞だろうとか、切実だから意味があるんだとか、そういった次元の話ではなくて、だってそれが日常なのだから、ただどうしようもなく、あるのである。
私たちは、そうした日常への居合わせ方によって、それを物語として受け取って共感したり、何でもない光景として素通りしたりするかもしれない。この時期の酒々井知央という歌人が制作していたのはそういった作品であり、彼女の後の仕事もまた、そうした何気ない日常の景色へと接続している。あるいは、またいつかこの景色の先で、私たちはこういう作品と巡り合うことになるのだろう――酒々井の作品には、そんな感想を思わせる力が秘められている。
