乾遥香「夢のあとさき」について

近況のようなこと

最近わりと余裕があるので、めずらしく本を読んでいる。積んであった社会学の本だ。

自己と「語り」の社会学 - 世界思想社

(ちなみに、この本はやや古いし、たぶん読みづらい本のような気がするので、あまりおすすめしない。もし、この本の内容に関心がありそうなら、同じ著者によるもうすこし新しい本を読んだほうがよい)

この本はいちおう、一度通読したことがあるはずなのだが、よく覚えていない。たぶん以前に読んだときは精神的にもっとしんどい状態で、ほとんど無理をしながら文章を読んだり書いたりしていたように思う。だから、そのときに比べれば、内容も比較的よく理解できていると感じる。またすぐに忘れそうだが。

最近は、短歌っぽい、文化的な(?)活動はさっぱりしていなかった。別にまるっきり何もしていなかったわけでもなく、このブログになんとなく関係がありそうな活動としては、冬ごろには、「短歌の詩的度を測る」みたいな謎のプログラムを書いたりもしていた。

これはこれでおもしろい内容だとは思うのだが、短歌に関連する私のコアな関心事とは違うかなと思った。しばらく短歌のことは考えていなかったので、自分でもうろ覚えなのだが、私は、たぶんもっとこう「みんなは短歌をつくったり読んだりしていて、何をうれしいと思っているの?」みたいなことに興味があったのだと思う。もうちょっとフォーマルな言い方をすると、現代短歌の担っている機能はどのようなものか、みたいなことだ。

だから、「この短歌をつくった人は何をやろうとしていたのか」みたいなことが考えたくて、もともと短歌に関連する文章はそういうことがしたくて書いていたような気がする。もっと言えば、私は人とのコミュニケーション的なことははっきり言ってかなり嫌いなのだが、その一方で、他の人がどういうことを思いながら、どういうことをして暮らしているかみたいな話を見聞きするのはわりと好きなのだと思う。

物語を見る視座

自分とは異なる他者の「生きられた経験(lived experience)」に思いをはせるというのは、そういったことについて四六時中考え続けているとさすがにうんざりしてくるものの、まあ、悪くない感覚ではある。というか、たぶん、多くの人はそんな感じのことを思ったことがあるんじゃないかと思う。別になんということはない、人の話を聞くのって、まあまあおもしろいよねというくらいの話だ。そうした他者の人生の細部とか、心の機微みたいなことに対するみずみずしい気づきのことを指すことばだって存在する。

sonder

n. the realization that each random passerby is living a life as vivid and complex as your own—populated with their own ambitions, friends, routines, worries and inherited craziness—an epic story that continues invisibly around you like an anthill sprawling deep underground, with elaborate passageways to thousands of other lives that you’ll never know existed, in which you might appear only once, as an extra sipping coffee in the background, as a blur of traffic passing on the highway, as a lighted window at dusk.

これはもともと、John Koenigという人物が運営しているThe Dictionary of Obscure SorrowsというWebサイトで紹介された造語のひとつだ。このWebサイトは「単語になっていないエモい概念に名前を付ける」というようなことをやっている英語圏のブログで、その人気から書籍化もされているらしい。

「これってつまりこの感覚なんだろうなー」と思っていたのが、この文章で取り上げる、乾遥香「夢のあとさき」である(以下、引用は『短歌ムック ねむらない樹 vol.6』による)。

ねむらない樹 vol.6|短歌ムック ねむらない樹|書籍|書肆侃侃房

乾の連作については、これまでに書いた文章のなかで何度か取り上げている。たとえば、短歌「にする」という言語行為のなかでは、「ありとあらゆる」について、「ほとんど全部の短歌において、実際には真実として決定づけられなかった線における、もしかしたらありえたかもしれない可能性の世界が幻視されている」ということを指摘した。また、歌人の手つき(Ⅰ)という文章のなかでは、「この語り口は「夢のあとさき」(『短歌ムック ねむらない樹 vol.6』)にいたって、まさに夢から覚めるかのように、作中主体が息づく現実の世界のなかへと立ち戻っていく」とも書いた。

ありとあらゆる人々が、この〈私〉がそうであるのと同様に、その人それぞれの緻密な人生の物語を生きている――実に、私たちにはそんな気づきにさらされる瞬間がある。「夢のあとさき」の背後にあるのは、そういった種類の気づきだろう。

飛ばされた帽子を帽子を飛ばされた人とわたしで追いかけました

そうした物語は、本当は必ずしも人々の考える〈動機〉とか〈理由〉のみによって駆動しているわけではないはずなのだが、この人物は、どういった経緯でこの物語はそのようなことになっているのかという点について、何かしらの〈動機〉や〈理由〉があってそうなっているとする認識をよく語っている。

レジ台の何かあったら押すボタン押せば誰かがすぐ来てくれる

ジンジャエールは映画っぽいと思ってて映画館で頼むジンジャエール

昼下がりエスカレーターでわけもなく子どもが子どもに抱きついている

というか、そういう認識の書き方があまりに執拗なので、ただの事実と並置されている部分に、そうなるべき〈動機〉や〈理由〉がある(あった)のだと、ここでは考えられているということなのだろうなみたいに読めてしまう。

こうした点については、たとえば大森静佳が笹井宏之賞の選考のなかで「社会のなかでありふれた仕組みやメッセージのひとつひとつに立ち止まって、それを過剰なまでに自分宛のものだと真っ当に信じようとしている」とか「自分に宛ててこの世界が押し寄せて来ているということを、すごく前のめりに感じ取ろうとしている」といった言い方で指摘している。これも大森の言い方だが、「その過剰なところから現実を見て書いたらこうなった」という一つの視座を提示しているのは「夢のあとさき」の語り口の独特なところだろう。

だからなに、みたいな「ね」

そんな感じで、この人物がやろうとしているらしいことはたぶんなんとなく指摘できるのだが、一方で、しかしこれは何を見せられているんだろうというような感覚もあった。

短歌というのは、表現なので、誰かに対して何かを伝えている。その誰かというのがその短歌に描かれる世界における特定の人物なら相聞歌みたいなことになるし、そうでないならだいたいその短歌の読者に向けて書かれている。

片方の靴があるから片方の靴だけ履いた子もいるんだね

しかし、そう思ってこういう短歌を読もうとすると、どこか変な気分になる。この「ね」は、おそらく、五島諭の「地震がきたら倒れるかもね」と同じ種類の「ね」だ。だからなに、みたいな「ね」。「ね」と言っているわりに、その表現が向けられるべきはずだろう誰かの同意など、はじめから必要としていないような感じがする。

検診を受けなさいって手紙くる 生きててほしくて書いたんだよね

この「生きててほしくて書いたんだよね」というのも、不自然な「ね」だ。これは、この人物に検診を受けるよう促してきた人物へ向けられるメッセージとしては機能しない。この作品を実際に短歌として読むだろう読者は、常識的に考えて、この人物に手紙を出したその人ではないはずだからだ。

アイライン引くのがうまくなっているあなたに毎日があったのね

思うに、これらの「ね」はすべて、「ね」と言っているこの人物が、自分で自分に向かって、たしかにそれがこの物語における〈動機〉や〈理由〉だったはずだろうと言い聞かせるために書かれている表現なのではないか。「夢のあとさき」という連作全体を通じて、この人物は、言ってみれば、逆の意味での認知行動療法みたいなことをしているのだと思う。つまり、この人物はおそらく、こうして身の回りのことを題材に短歌をつくってみて、推敲もして、後から自分で繰り返し読み返したりもするかもしれない、そうすることによって、この〈私〉の物語は本当にそのような〈動機〉や〈理由〉によって彩られているのだという、まだあまり馴染みのない視座に自らを歪め、順応させようとしている。

なんだかことば遊びみたいな言い方になるが、大森の指摘する、ありとあらゆる世界のあり方が「自分宛のものだと真っ当に信じようとしている」というのは、実際のところ自分でもまだそんなふうには信じられていないからこそ可能なおこないなのであって、したがって、この作品を通して私たちが目にしているのは、それをそうと信じているふうな表現をあえて反復して試行することによって、本当にそうと信じている〈私〉を立ち上げようとする一連の過程なのではないだろうか。

エキストラである私たち

そうだとすれば、これは何を見せられているんだろうというあの違和感の正体もなんとなくわかる気がする。

見てみせて 伸びっぱなしの前髪を左右に分けてよく見てみせて

これも、誰かに向かって〈私〉のことを「よく見てみせて」と訴えているのではない。〈私〉自身に向かって、その誰かのことを「見てみせて」とアドバイスしている。

ブルーマーっぽい言い方でいうところの「自己との相互作用(self-interaction)」というやつだ――私たちは、どこかのカフェの店内で、たまたま近くの席で繰り広げられている対話を横からおもしろく聞いていたのだったが、そういう対話の内容について突然批評を加えようとするのは場違いなことのように思われている――その対話はあくまで彼女たちのものであり、私たちは彼女たちにとって、たまたまその背景に居合わせてコーヒーをすすっていただけのエキストラのような〈役割〉を負っているにすぎない。

もちろん、「夢のあとさき」はどこかのカフェでの対話ではなく短歌連作なので、おそらくかなりの程度、はじめから私たちに見られてもいいように書かれている(ただの自分と対話するためのことばの一つ一つがこんなに凝った短歌のかたちをしている必要はないだろう)。しかし、それにしたって、一度予期してしまった〈役割〉を離れて、別の〈役割〉を演じなおすというのは大変なことだ。一度、自分はエキストラなんだと思ってしまったら、ふつう、主人公たちの話に割って入っていくみたいなアドリブなんてなかなか思いつけるものではない。

〈動機〉や〈理由〉、〈役割〉といった概念は、私たちが物語を語り、演じるためのある種の「語彙」である。私たちはたしかに、そうした「語彙」を駆使しながら物語を語りだす自由を有しているのだが、しかしそれは、次の瞬間から突然これまでの物語を無視したまったく新しい物語を演じはじめることができるという意味ではない。私たちが実際にどのような物語を演じることができるかは、相互行為のなかにあって、他者や自分自身からの予期によって縛られている。予期された結末を免れるためには、そうした予期から少しずつ逸脱するだけの試行を繰り返すなかで、その違った結末に到る物語のほうを〈私〉にとって板についたものへと変えていくしかない。

わたしはこれから変わっていくけれど、わたしはこれからもわたしのままです。わたしの望みは、去年も今も、変わっていません。あなたの短歌を、あなたを、待っています。

乾によるこの「受賞の言葉」は、そういう決意について語っている。とても当たり前なことなのだが、書いたり読んだりを繰り返し続けていくというのは大変なことだ。でも、もしかしたら、大変なことだから、繰り返しやるものなのかもなと、ふと思った。またこういう連作を読めたらおもしろいだろうなとも思うし、私も、たまにだったら、短歌を探してみるのも、悪くないかもしれない。