短歌するための演劇論

まえがき

子どものころ、役者(というか声優)になることが夢だった。いま、こうして演劇とはまるで無縁の場所にいても、私が私自身の人生のなかで経験しえなかったことを演技として追体験するということは、私のなかの深いところで大きな関心事のひとつとして横たわっている。

この記事では、短歌を読むことと演技することとのアナロジーについて検討している。以下では短歌をつくる側に求められる演技については検討していない。短歌をつくる側につきまとう「演技性」と呼ばれているものの本質的な部分は、〈いまここ〉にいる私を離れて何者かを演じるという行いではなく、むしろ語りを短歌へと落とし込むうえで、どのような様式のものがよりリアルな語りと見なされるかという文化的な事実に起因している。それは短歌内での自然な語りとはどのようなものであるべきかという問題であって、以下で述べるような演じることとはあまり関係がない。

テクストをもとに演じること

短歌を読むことは、典型的には、その短歌の語り手である主体を演じることに似ている。読み手は与えられるテクストを語り手によってなされた発話行為と見なし、その発話行為がなされた場面を追体験しようとする。歴史的な経緯はわからないが、それは作者を同じくする短歌の集合(歌集や連作などと呼ばれるもの)であっても同じで、短歌という文芸ではなぜか無人称で書かれた地の文みたいなものを想定しづらい。そういう意味では、短歌は小説というより戯曲に近い読まれ方をするもので、しかもその戯曲の多くはト書きがなく、全編がモノローグからなっている。

語り手の発話行為を追体験することを短歌を読むうえでの究極的なゴールに据えるとき、その発話行為がなされた場面を具体的に想像したり、そのときの語り手の気持ちを想像したりするといったことは、その行為を演じるうえでの訓練にすぎない。なんというか、私たちがなすべき本当の読みはもっとその先を志向している。つまり、短歌することが、短歌として非可逆的に圧縮され、捨象された情報までをも復号することを試みるようなコミュニケーションであるならば、私たちは語り手が短歌として語りえなかった情況までをも含めてそのテクストから読み解くのでなければならない。

こういうテクストからの追体験のあり方は、演劇論のフィールドではしばしば「再現」という表現によって言い表される。それは、著名な演出家にいわせると次のようなあり方だ。

ラリー・シルヴァーバーグは、このテーマをさらに詳しく述べている。マイズナーにとって「舞台で読むなら、本当に読みまたえ。食べるなら、本当に食べるんだ。何か(対象物)が欲しければ、本当にそれを求めるんだ。追いかけて、追求しろ。それを手に入れるまで止まってはだめだ」ということなのだ。マリア・ウスペンスカヤは「本当に見なさい。演技する代わりに見るのです。演じてはいけません。やるのです」と述べる(編=アリソン・ホッジ『二十世紀俳優トレーニング』p.238)。

けれども、これはかなり観念的な話ではある。ある役割のフリをするのではなく、その役割をほかならぬ〈私〉として引き受けて遂行するというのは、たとえ訓練を受けた俳優であったとしても、きっと簡単なことではない。また、私たちはテクストからその発話行為がなされた事態を再現しようとするが、そもそも目の前にあるそのテクストは、デリダ風にいえば事態からすでに差延されてあるものであり、そこから事態を「再現」するにはまったく不十分な情報でしかない。というよりも、字義通りの「再現」など当然ながら人間には不可能で、私たちは〈いまここ〉における私ができうるかぎり近い事態を演技するとしたらという条件のもとで、ある事態を模倣しているにすぎない。

したがって、テクストをもとに演じることとは、私たちが日常的に用いる語彙でいえば、むしろテクストに「共感」することだといえる。ところで、感情心理学が指摘するところによれば、私たちの共感性には大別してふたつの意味があるとされる。ひとつは、他者がどのような感情を抱いているか認識することができるという意味での側面(認知的共感性)で、もうひとつは、他者が抱いている感情をなぞって「再現」することができるという意味での側面(情動的共感性)だ。ここまでに見てきた、テクストをもとに演じることのゴールは、他者から見えるだろう世界を想像するという認知的レベルでの演技というより、そのような他者から見えるだろう世界に没入し、〈いまここ〉における私の身体性を媒介として他者を模倣するという情動的レベルでの演技を達成することだといえる。

捨象される経験

しかし、繰り返すが、私たちは人間であるかぎりテクストが志向しようとする他者自身を再現することなどできない。私たちは〈いまここ〉における私ができうるかぎり近い事態を演技するとしたらという条件のもとで、ある事態を模倣しているだけだ。それでも、私たちがなすべき本当の読みはもっとその先を志向せずにいない。

たとえば、私たちは日常生活のなかでさまざまな経験をしているが、それらをあえて言語化するというのはむしろ稀な事態であり、多くの経験は言語化されないものである。「共感」という語彙に沿っていうならば、言語化された感情のみに注目するのでは、言語化されなかった水準の「感情」はそのまま捨象されてしまっている。たとえどれほど巧みに演技しようとも、そうした抜け落ちてしまっている経験については、肉薄することができないのではないか。

このような観点から、感情社会学というフィールドにおいて感情語として表れる感情経験のみに焦点をあてることを批判した論者としてデンジンがいる。彼は、私たちの感情というものは感覚的感情・生きられた感情・意図的な感情の3層の構造をもつものだとしていた。このうち感覚的感情は、いわゆる「感情」以前の感覚(sensation)であり、反省作用が介在しない点で、感情経験の探求からは除外すべきだと主張している。その一方で、生きられた感情と意図的な感情については、反省作用が向けられた(言語化された)ものであるとして、感情経験の研究の対象であるべきだという。しかしながら、感情語とは生きられた感情経験(lived emotion)の語彙を表す体系として必要ではあるものの、生きられた感情経験そのものを表す語ではなく、それらが抽象化され、観念化したものでしかない。この点から、感情経験を研究するうえで言語化された感情のみに焦点をあてることは、「感情」を感情語がラベルされる石のような静態的な実体として捉えることにより、生きられた感情経験を蔑ろにするものだとして、感情社会学の限界が指摘されている。

また、エリスも同様に感情社会学が生きられた感情経験(lived experience of emotion)を扱ってこなかったことを問題視している。彼によれば、感情社会学の調査モデルは「表層の公的な自己のみに接近し、深層の生きられた自己と感情経験への接近を試みなかった」ことで、感情を経験する主体と彼らが感じる感情経験の分離をもたらしたという。すなわち、エリスの認識によると、言語化された感情と感情経験そのものとのあいだには一定のズレが存在しているのだが、感情社会学はそのズレをかえりみることなく、感情経験を分析する際に、感情経験そのものよりもむしろそれを言語化する個々人の認知を分析することになった。彼はまた、感情社会学が社会科学であろうとするなかで「科学的」に分析可能な個人の感情語をめぐる解釈実践のみに目を向けてきたことを強く批判している。

こうした異論の根底にあるのは、言語化されない水準という意味での、「生きられた感情経験」を分析の射程外におくことで感情経験への理解が切りつめられる可能性があることへの危惧である(崎山治男『「心の時代」と自己 感情社会学の視座』p.62)。

この点について崎山は、クルターの論を援用しつつ、そもそも生きられた感情経験として個人に意識される「感情」が、感情経験が言語化される過程ではじめて構成されるものであることを指摘する。つまり、言語化される・言語化されないという水準によって区別される2種類の感情経験がもとからあるのではなく、感情経験の解釈実践を経て言語化されなかった部分が「言語化されない水準」として意識されるというのである。

同じような反論が感情は感情語によっては十分に表しえないという主張に対してもなりたつ。崎山は「個人が感情語として感情経験を表出することで、はじめて個人の『内的』な感情経験が――『外的』な感情経験と区分される中で――明確に意識される」と述べている。つまり、感情語として表しきれない「内的」な感情経験は、感情語として表された「外的」な感情経験との対照としてはじめて意識されるのであって、それ以前に意識可能なものではない。感情語によって十分に表しえない感情経験は、感情語によって表される感情経験と同時に構成される。こうした二項対立の産出はそれが感情経験の表現である以上、避けてとおれないものだろう。

演技力の臨界

以上のような感情社会学における議論は、感情経験だけにとどまらず、より広く、言語化される経験・言語化されない経験の対立について適用できるものだろう。もちろん、デンジンの言い方に倣うならば、さまざまな「生きられた経験」の源泉である「感覚的経験」とでも呼ぶべきものは確かに実在するかもしれない(そういった、私たちの認識の俎上にあがらない、過去ならぬ過去自体をどのような実体として描きうるかという哲学的議論にはここでは触れない)。しかし、デンジン自身も認めるように、そこはそもそも反省作用が介在しない地点であり、原理的に語りえない(決して語り尽くされることのない)領域である。気の利いた言い方をするなら、おそらく、そのような「感覚的経験」は「生きられた経験」を実際に生き直すなかにしか存在しない。

テクストをもとに演じること、あるいは「共感」することの強力な作用は、したがって、テクストの語りえなかった他者を理解できてしまうということにある。もちろん、それは他者から見えるだろう世界をそのままに想像できるという意味での「理解」ではない。そのような意味においてならその「理解」は往々にして間違っている。たかがテクストから他者の生きられた経験をそのままに読み解くなど私たちにできるべくもない。それでも、短歌することが、短歌として非可逆的に圧縮され、捨象された情報までをも復号することを試みるようなコミュニケーションであるならば、私たちは他者の「生きられた経験」を演じる過程でそれを追体験できる。それは、そういう他者もいるだろうことがわかるといった弱い理解ではない。〈いまここ〉におけるこの私にもその経験が確かな実感をともなってわかるという強い理解にほかならない。

もちろん、現代における短歌は、その短歌の語り手である主体を演じるような読み方が可能な作品ばかりではない。たとえば、さながらサミュエル・ベケットの戯曲のように、〈私〉の語りでありながら〈私〉が語り手としての〈私〉を拒絶しようとするような作品も存在するだろう(おそらくだが、存在する)。また、そこまで複雑に屈折した〈私〉の語りでなくとも、そのような他者がいること、そこから見える景色を想像することはできても、「共感」することは困難な作品というのも少なくない。ただ、それは個人の演技の幅には限度があるという話にすぎないだろう。少なくともそれがテクストの側のリアリティの不在のせいであることはほとんどないような気がしている。

むすび

というか、人間が人間のままに演じうる世界とは、すべて実在しうる世界なのではないかということを考える。人間はたくさんいるのだから、そういう心をもった他者がいるだろうことを「理解」できる人はだいたい少なからず存在し、そのなかにはその経験をリアリティをともなって追体験できる人が一人くらいいたっていいのではないかと。希望的観測といってしまえばそれまでだが、私自身も短歌をつくったりする立場として、どこかでそんな強い意味での作品の理解者が現れることを期待しているのかもしれない。

ともすれば、私が実際に語りえたものよりも多くのものを演じ、再発見しながら、その経験を語り継いでくれる他者を、私はどこかで期待している。

ブックガイド

参考にした文献を挙げておきます。