短歌と感情のリアリティ

花水木の歌のこと

私たちは短歌の何を読んでいるのだろうか。私たちにとって、短歌を読めているとはいったいどのような事態なのか。たとえば、あなたは日本語で書かれた短歌をふつうに読み、その意味について考えることができているように思われるが、それを確かに「読めている」という手応えのようなものはどこからくるのだろうか。

2020年の1月のことを思い出してほしい。当時、Twitterの短歌界隈は、吉川宏志の次の歌の話題で持ちきりだった。

花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった

/吉川宏志『青蟬』より

もともとは土岐友浩によるコラムで取り上げられたのが話題の発端だった。このコラムで紹介されたことに触れながら、私は次の記事を書いた。

花水木の歌の意味論|さちこ|note

私の書いた記事については、花水木の道がちょうどそのような長さであったがために結果として愛を告げることが「できた」という読み、あるいは「できなかった」という読み、そのうちのいずれか一方に与するようなものではない。いたらない内容であったためにそもそもその点を誤解している読者がいたようだが、あの記事は、例の一首だけを取り出してきて鑑賞するかぎりにおいてはたしかにどちらの意味にも読むことが可能であるという事実を確認するだけのものであり、意味の解釈としてはそれ以上のことを一切述べていない。

一方で、私から見えた範囲では、信頼のおける読み手の多くが、例の一首について「収録されている連作を通して読むならば『告げることができた』ものだろうと思われる」という主旨のことを述べていた記憶がある。だから(それこそが「正しい」読みだという言い方はあえて避けることに注意してもらいたいが)、おそらくは愛を告げることが「できた」ものとして読むほうがやはり自然な解釈なのだろう。

短歌はなぜ「リアリティ」の問題になるのか

ここで花水木の歌の話を蒸し返したのは、この記事で少し別の角度からの話を展開したいからだ。私たちが「花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった」という表現とだけ向きあうとき、そこでは確かに愛を告げることが「できた」とも「できなかった」とも言明されていない。だから、結局どちらだったのだろうかと考え、判断するのは、究極的には読み手それぞれの解釈に委ねられることなのだった。さしあたり、その点については了解してもらえたものとしよう。

だが、そもそもの話、なぜ、愛を告げることが「できた」とか「できなかった」とかがあれほど議論になったのだろうか。実際のところ、究極的にはどちらかわからないのである。だったら「そんなことどちらかはわからないし、だからどちらでもよいではないか」と言ってしまえば、それがほとんど唯一の正論で、それで議論は終わりそうなものではなかったか。

繰り返すが、私たちが花水木の歌と向き合うとき、そこでは確かに愛を告げることが「できた」とも「できなかった」とも言明されていないのである。より正確にいうと、慣習的には「できた」と読むことも「できなかった」と読むことも許容されるので、そのいずれの可能性についても排除できない。つまるところ(逆説的なことを言うと)あなたや私が、あの歌の主体が結局のところ愛を告げることが「できた」と思っても、あるいは「できなかった」と思っても、花水木の歌が短歌として言明している内容に変わりはないのである。

素朴な話をすると、私たちはそもそも「書かれていることを読んでいる」はずであり、だからこそ「書かれていることだけを読みなさい」という箴言めいた台詞を口にしたりもする。書かれていることだけを読んだ結果としてそうと確定できない事柄についてはやはり「わからない」と述べるに留まるのが誠実なはずであり、そういう態度を徹底するならば、書かれていないことについてはとやかく言うべきではない。もしあなたが「書かれていることだけを読む」を真に実践すべきことと考えるならば、花水木の歌について、愛を告げることが「できた」と読み解くことも「できなかった」と読み解くこともあらかじめ封じ手にされなければならないはずなのである。

とはいえ、私たちの素朴な感覚はそれでは困ると考えるだろう。読み取れる内容として「この主体は愛を告げることができたかできなかったかどちらかだ」というのでは、それは文字通り何も言っていないに等しい。私たちがこの主体が愛を告げられたとか告げられなかったとかいったそのことについてあれこれ感じとるには、本当のところ愛を告げることが「できた」のか「できなかった」のかを歌意として確定させて、はじめてそういった事態について思いをはせるべきはずだ。そして、結局愛を告げることが「できた」歌と読むか「できなかった」歌と読むかという本当のところの如何によって、この歌の味わいは異なってくる。だからこそ、愛を告げることが「できた」と読むか「できなかった」と読むかがあれほど議論になったのではなかっただろうか。

先の私の記事は、吉川の花水木の歌を意味論的に読むことによって、解釈が分かれることがあるというその分かれ目を探るものだった。実際、意味論的な読みは解釈の分かれ目を一定程度示すことができたように思われるが、それは現実にそれぞれの読者が「できた」と読むのか「できなかった」と読むのか、その分かれ目について説明することはない。意味の解釈をめぐってこうした〈心の理論〉を扱うのは意味論よりむしろ語用論と呼ばれる領域だろう。

この一首、特に「長くても短くても愛を告げられなかった」という下句を読むとき、若い読者はまず「長くても愛を告げられなかった」「短くても愛を告げられなかった」少なくとも二パターンの主体の姿を思い、その想像にリアリティの重心を置くために、何割かの読者は「どのようにしても、この愛は告げられなかった」と結論するのではないだろうか。

土岐のこの指摘は、そういう読者も確かにいるだろうというかぎりにおいて、的を得たものだと思う。土岐がここで「想像力のあり方」あるいは「リアリティの重心」という言い方をする読者の〈心の理論〉は、実に、個人によってその「重心」の位置に異なりがある。しかしそうはいっても、それはやはり異なりがあるとしか言いようのないものであり、だから個人の〈心の理論〉が具体的にどのようなもので、その結果としてその人がどの位置の「何割かの読者」に属するのかといった説明を与えることはできない。

「よろこびがある」ということのリアリティ

私はべつにここで短歌や表現行為の解釈や鑑賞とはかくあるべきだといった規範論の話をするつもりはない。私の関心はむしろ、多くの人が、とりわけ短歌では表現の「本当のところ」を問題にするかたちで解釈や鑑賞をおこなうのはいったいなぜなのか、表現の「本当のところ」とはいったい何に由来するものなのかを考えることにある。

私は花水木の歌の解釈の分かれ目を単純に世代論に帰着させることには慎重な立場だが、土岐が読者の「リアリティの重心」が世代によって異なるのではないかと指摘する心情は肌感覚としてわかる気がする。大雑把な見方なのを承知で指摘すると、おそらく従来の短歌の「リアリティ」は現実の世界に実在する詠み手の身体性を基盤としていたのだが、短歌の作中主体そのものがフィクションである可能性が徐々に当たり前に許容されるようになるにつれて、身体性を基盤とするようなタイプのリアリティは相対的にその重要性を弱めている。一方で、そうして基盤を失いつつあっても、短歌に求められる「リアリティ」の質は変わらない。そのために、たとえば実際に言明されていることが現実世界に由来しない虚構であると後から明らかになることが問題となったりするのではないだろうか。

「リアリティ」を重視して作品を鑑賞している場合、作品に書かれていないことによって「リアリティ」が豊かに見積もられたり、逆に「リアリティ」が目減りしたりすると、その度ごとに評価を改訂しなければならず、都合が悪い。いうなれば、それは読者の側の都合である。短歌で表現の「本当のところ」が問題になるのは、「本当のところ」の如何によって作品の意義が変わってしまうからにほかならない。

けれど、花水木の歌の例のように、どのような表現が「リアリティ」あるものに映るかはむしろ表現に対する者の〈心の理論〉によって左右される。同じ表現に対して私たち一人一人が自分にとってより「リアリティ」を感じられる解釈しか選びえないのだとしたら、私たちは自分が属する側ではない「何割かの読者」から見えている「リアリティ」を取りこぼすことになるだろう。

「スイミング・スクールを読む」(『bouquet, 2020』 稀風社)という文章のなかで、次の短歌をとりあげた。

スロープと階段があってスロープのほうを下ればよろこびがある

/鈴木ちはね「スイミング・スクール」

これは私の読みだが、ここでの「よろこびがある」という言い方は「喜びという感情がある(起こる)」ということとは本質的に違うことに言及しているように思われる。これは「嬉しい」とか「喜んでしまう」とかとは言い換え不可能なもので、ここでいう「よろこび」とは、主体の感じる内的情感にあてられたいわゆる〈感情〉を表す語彙なのではない。

「スイミング・スクール」には「いい路地と思って写真撮ったあとで人ん家だよなと思って消した」という一首もあるが、「よろこびがある」は認識の状況としてこれとよく似ている。つまり、この主体が路地をよいものだと感じる、その感情が起きる地点まで認識が向かわないままに「(いい、という気持ちが起こる)路地」として、そのような状況が〈私〉の外部に存在している。この連作の主体は、感情や意図といった、多くの人が自分の内面に属すると考えるだろうものについて、あまりとりたてて意識することをしないような認知的な癖をもっているようだ。

「よろこびがある」という表現は「(嬉しい、という気持ちが起こる)そのような場所」について、やはり〈私〉の外部に存在する状況として描写したものであり、そのやや独特なコロケーションとは裏腹に、主体の認識としてはまさに字義通りの意味を表していると考えられる。

階段の途中地点の〈私〉たち

土岐の言い方に倣うならば、どこかの「世代」よりもこちら側の世界観のもとでは、存在論的な仕方で現実世界のなかに実在するものと、認識論的な仕方ではじめて現実世界のなかに存在しているものとが緩やかに地続きになっている。そういう人たちがつくり、読み解く短歌のなかでは、概念だったり、本当は想像のなかにしか存在しないようなものが、現実世界に実在するものを描写するのとほとんど同じ表現をともないながら、しばしば確かな「リアリティ」あるものとして立ち現れる。

コンビニに生まれかわってしまってもクセ毛で俺と気づいてほしい

/西村曜『コンビニに生まれ変わってしまっても』

土岐はこの作品などを引用しながら「小木曾や西村の歌を読んでいくと、その想像力の重心が、現実と地続きのどこかにあるのを感じる」と述べる。それでも西村の歌の重心は、まだ本当の現実世界に近いところにあるはずだ。次の作品はどうだろうか。

シャンゼリゼ通りに消えた恋人にハンターハンター貸しっぱなしだ

/ねむけ

この短歌などは、おそらく具体的な実体験に取材していたりはしない、いってみれば完全な虚構だろう。

どこでもないどこかとしてのあの夏のこと

この人の短歌についてはこの上の記事で扱ったのだけれど、こういった完全に想像のなかだけの世界について語っている作品においては、身体性を基盤とするようなタイプのリアリティはもはやまったく感じられない。「シャンゼリゼ通りに消えた恋人にハンターハンター貸しっぱなし」という人がどこかに存在するとは(少なくとも私には)ちょっと考えにくいし、だからそういう立場になった人が何を思うのかというのもさっぱり想像できない。

この詠み手はこういうタイプの作品を多くつくるのだが、それでも、たとえば次の作品の「さびしさ」はある程度リアリティがあるものとして共感できる気がする。

階段の途中地点を踊り場と呼ぶわたしたち きっとさびしい

/ねむけ

この点について、先の記事ではこういうことを書いた。

なぜ、「踊り場」という生き生きとした語感のある名をそなえた地点が孤独と結びつくのか。これは私の個人的な解釈でしかないけれど、それは私たちの想像する踊り場がいずれも現実にある場所に接続するどこかではなくて、どこでもないどこかだからではないだろうか。私たちが想像した踊り場へと下り立つ人影は、一見生き生きとしたリアリティのある世界を生きているように見えながらも、その実、誰の個別の記憶とも隔てられた地点に立っている。物語のなかの主体は誰しも、いわばそのように他者の具体的な記憶から隔てられたセカイ系的な世界を生きているのであって、そのような世界を「踊り場」と呼びつつ想像することは、かえって彼らのさびしさを際立たせはしないか。あるいはまた、そうしてセカイ系的な世界に立ち入る人影とは、まさに物語のなかに立ち現れる私たち自身でもありうるのだから。

面白い事実として、私たちが他者に共感するためには、それが現実世界のどこかに実在する具体的な誰かである必要はない。むしろ、それが誰でもない誰かであるということのほうがかえって気兼ねなく共感できることの助けになる側面もあるだろう。それがよいとか悪いとかいう話までここでするつもりはない。だが、作品の「リアリティ」の有無が表現の側でなくあくまで読者の〈心の理論〉によるのだとしたら、作品の内容の「本当のところ」の如何によってその意義が変わってしまうというのはどうなのだろうか。

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