斉藤斎藤「予言、〈私〉」の一つの読み

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斉藤斎藤の「予言、〈私〉」という連作についての私的なコメント。

「予言、〈私〉」について

初出は『短歌研究』2012年11月号。インターネットにもいくつかの評がある。比較的最近になって書かれたものとして、以下の大岩による記事が、この連作が話題になった経緯を簡潔に紹介している。

euskeoiwa|大岩雄典|ピエール・メナールの実体化:斉藤斎藤「予言、〈私〉」について

この連作についてはもうすこし説明が必要だ。本連作は、『短歌研究』2012年11月号(短歌研究社)が初出で、同じ形で本書にも収録されているが、二つ、大きく異なる点がある。作者名義と「注記」の存在だ。本連作は十首の歌から成り、すべてに関係する出典がある。『人の道、死ぬと町』にはその一覧が、「2013」セクションの終わりに掲載されている。

(中略)

つまり、「予言、〈私〉」は雑誌の初出時には、「斉藤斎藤」に二重取り消し線を引いた名義で発表されていた。そして初出時は出典が明記されていなかった。本書には他にも、出典をもつ連作が多く掲載されているが、そのどれもが、連作の直後に続けて出典・注記が記されている。だが「予言、〈私〉」に限っては、セクションひとつ離れたところにあえて掲載されている。

(中略)

後述するように、「予言、〈私〉」は引用のルールを違反しているとして、多くの批判を浴びた。だが、それまで複数の連作で綿密な出典明記をしてきた斉藤が、あえて、すべての歌が資料からの再構成から成るこの連作に注記をつけなかったのは、意図的な形式的判断とみなすのが、初出時でも妥当だっただろう。もちろん、著作権上、また厳密に法的でなくとも、モラル上のリスクはある。だがそれを加味したうえで――その意図が成功しているか失敗しているかは後の記述で判断するとして――注記を記さないという表現を選んでいる。

大岩の記事は、他のブログ記事などを参考にしつつ、「予言、〈私〉」について、出典元がある表現を再構成しながらつくられているという特徴を指摘し、斉藤にはそれらの出典をあえて明記しなかった積極的な理由があったのではないかとして、それを考察している。具体的には、「予言、〈私〉」は引用のルールを守っていないがゆえに、逆説的に引用を意図したものではなく、「〈その当時に無名の歌人、実際にはいなかった歌人、少なくとも実際に歌詠みとしては存在しなかった人物によって詠まれた、文字通りの未来の予言〉の歌なのだ」と論じている。

「予言、〈私〉」への批判

大岩の読みはやや独特で面白いものである一方、ではなぜよりにもよって斉藤がそのような回りくどいことをしなければならなかったのかという点を必ずしもよく説明しない。つまり、斉藤がこのような挑戦的な形式の作品を公開したことについて、たとえば次のような批判をかわすための材料としては不十分だろう。

短歌における〈私〉、責任、倫理の問題――「短歌研究」2012年11月号という、放送事故――(2) - Molto Espressivo

問題は、従来の〈私〉性を否定した先に、斉藤斎藤がどのような作品世界を作ろうとしているのかがあまりにも分かりにくいのである。仮に〈私〉を否定した先に、言語がそもそも持ち合わせているある種の匿名性を鋭敏化させ、それこそ「理性」としての言葉を追求しようとしているのであったら、この連作は失敗作である。

ここには短歌のひとつの手法しか存在していない。斉藤斎藤という〈私〉は、抹消記号によってその文脈の制御機能すら失い、匿名性の中に霧散して消えた。〈私〉を失った連作は、文脈を崩壊させ、詩であることを放棄した。ここに登場する言葉は、短歌ではない。

斉藤斎藤(引用者注:引用元では取り消し線)はこうした歌をあと290首ほど作って、フリーペーパーとして第二歌集を発行すると良いだろう。但しその際には、この連作のように「原子力」という、余計な意味を完全に排除し、コラージュの選択者としての〈私〉の安っぽさをちらつかせた今回のような不徹底な真似だけは、しないで頂きたい。

ここで私は、斉藤斎藤を格別擁護したいとかではないが、こういう批判をかわすまでいかなくてもすこしだけ遠くにそらすような読みの可能性を示したい。なぜ、斉藤はまるでコラージュをつくるかのように並べた「原子力」にまつわる他者の予言の声を、よりにもよって線によって打ち消された自分の名前のもとに発表しなければならなかったのか。濱松の読みは鋭いが、たぶん一つの行き違いがある。斉藤は、斉藤斎藤という〈私〉性を抹消したくて自らの名前を線で打ち消したのではない。それは結果としては同じことだが、斉藤斎藤という〈私〉性はここで抹消されざるをえないものだったがために、実際に抹消されているのである。

一つの読み

そもそも「予言、〈私〉」はなぜ他者の予言の声のみによって構成されているのか。というより、斉藤にとって、他者の予言の声を集めて連作にすることが直接の目的だったのだとしたら、「予言、〈私〉」ではなくただの「予言」でよかったのではないか。実際にそうでないということはつまり、「予言、〈私〉」の背後にはやはり抹消された〈私〉の意図が潜んでいるのではないだろうか。

「予言、〈私〉」は、斉藤斎藤という〈私〉の予言ではない。なぜか。他ならない彼は、予言しなかったからである。つまり、この連作が編まれた当時も、またそれより以前にも、「原子力」にまつわる問題は斉藤斎藤という〈私〉にとって個人的な問題としてついに意識されたことがなかったのではないだろうか。ゆえに、彼は「原子力」に関連して語るべき自分自身の言葉をもたなかった。これは根拠のない一つの解釈に過ぎないが、だからこそ、斉藤は「原子力」のあれこれの問題を自分自身の問題としては扱えないということを素直に表明したかったのではないだろうか。

ところが、「(原子力問題は)この〈私〉には関係のない・なかったことだ」と自分の言葉でもってスタンスとして表明してしまうことは、すでに一人の個人として公に活動している斉藤にとっては、無責任なこととしていわばあらかじめ封殺されている(このように個人としての語りを封じられている〈私〉であるがために連作の名義が打ち消しになっているのだということは言うまでもない)。そこで、語ることを封じられていることについて述べるためには、語り口の力に頼るしかない。斉藤はもともと引用やパロディみたいなやり方で他者の声をもじり、差異としての自分の声を語るということをやることがあるが、それをあえてやらずに他者の言葉をただ切り貼りしたように配置するというのは、自分の言葉としては何も語らずに、しかしそのことについて言及してみせるという一つのテクニックだったのだと思う。

もちろん、それは文字通りに何も語らないこととは違う。斉藤は「原子力」について何も語っていないが、何も語らないさまを実際に示すことによって、彼が本当に語ろうとしたことの語りえなさについて物語っている。そのやり方はひどく遠回りで、内容としてもけっして褒められるべきものではなかったかもしれないが、何も語らないことによってしか公に語りえないことがあるということも確かに事実なのである。

資料

この記事で書いた内容とはあまり関係ない。

斉藤斎藤「予言、〈私〉」に関する一考察 - Togetter

斉藤斎藤『渡辺のわたし』研究会:京大短歌会