リアクションとしての一首評

一首評ができない

短歌という現象に関連してときどき文章を書いたりするのだけれど、いまだに一首評というのがよくわからない。界隈にいると、歌が一首として〈立っている〉とか〈屹立している〉というコロケーションをたびたび目にするのだけれど、それがさっぱりわからない。短歌をやっている人びとにとってそういう短歌のいったい何が面白いのか、というか、そういう短歌の何を面白がるべきなのかという点について、ずっと存在しない正解を探しているような感覚がある。

〈予期〉の短歌論

定型における交換可能/不可能性について ――五島諭『緑の祠』を中心に―― - 良い旅を

※『羽根と根』4号初出評論を元に、誤字脱字等を訂正した

佐々木のこの文章をときどき読みにいくのだけど、五島の次の作品について言及がある。

夏の本棚にこけしが並んでる 地震がきたら倒れるかもね

/五島諭

はじめてこの歌を読んだとき、ひどく戸惑ったことを覚えている。永井亘は「この歌を読んで最初に抱いた感想は、何も言っていないに等しいのではないか、ただそれだけだった」と述べているが、私の感想もほぼ同じだった。上句で報告される情景のトリビアルさと把握の大雑把さもさることながら、唐突に地震が起きる可能性を提示し、しかしその結果すらも可能性しか示さない下句はそれにも増して茫洋としていて、こんなことをわざわざ付け加えた意味がわからなかったのだ。しかしほんとうに戸惑った理由は、この軽やかだが単に仮定に仮定を重ねただけに見える下句、特に「かもね」などという放埓な発話体に、なにか強烈な確信が籠っていると感じずにはいられなかったことだ。

この文章の指摘する気づきは面白いと思っていて、私たちは作品を短歌として受容するとき、作品の背後に、何かを意図しようとする他者の存在を幻視している。そういう「構え」のもとに、定型をいわば予期しながら受容することが短歌をはじめて短歌として現象させるのではないかと。だから、この作品を読んだときに「何も言っていないに等しいのではないか」と感じたという永井の感想はきわめて正しいというか、むしろ何かを言っているように見える作品のほうが不自然というか、だって作品は作品が伝達しようとする意味以上のものをそもそも何も伝えていないではないかということをしばしば考える。

書かれていること・いないこと

だから、こういういかにも何かを言っているような気がする作品だって、べつにそれ自体が何かを言っているわけではない。

無とは何か想像できないのはぼくの過失だろうか 蝶の羽が汚い

/五島諭

「無とは何か想像できないのはぼくの過失だろうか」というのは日本語の文だろう。私たちは、自分の言語と他者の言語ではその細部が異なるものだろうことにはひとまず目をつむって、文の意味を解釈する。だから「無とは何か想像できないのはぼくの過失だろうか」という言葉の意味をとりあえず理解できる。「蝶の羽が汚い」の意味も、わかる。けれど、もし書かれていることをただ読むだけで終わるならば、その先はどこにもないのではないかということを同時に考える。そして、そのレベルの理解にいたらないという話ならば、それは「ぼくゴリラ」の短歌だって同じだろう。

ぼくゴリラ ウホホイウッホ ウホホホホ ウッホホウッホ ウホホホホーイ

/菱木俊輔

後半は(あくまで好意的に読解するものとして)おそらくゴリラ語である。ゴリラ語は私にはわからないが、作品の一部がゴリラ語であるのは、きっとゴリラ語でなければ首尾よく伝達できないような得も言われぬ概念について伝達しようとしたからだろう。そういうことをやるために私たちもあえて翻訳することの困難な目新しい比喩表現を用いたりすることがあるはずだ。それをわかってくれる他者がたまたま現れる可能性に賭けるというのは悪い選択じゃない。ただ、結果的に、私にはわからなかった。だから、少なくとも私にとってこの作品は何やらウホウホと言っているだけで何も言っていないように見える。

つまり、読者としてのこの私の手持ちの言語に翻訳可能かということは問題を構成する部分に過ぎないというか、たとえば「無とは何か想像できないのはぼくの過失だろうか」という言葉に対するとき、私たちは他ならない彼にとっての「無」やそれを想像できないということの「過失」を理解できるのでないかぎり、彼の言葉の真意には迫れないわけで、そういうレベルの相互理解というのは互いに他者である私たちには原理的に不可能なのではなかっただろうか。

意味・リアクション

短歌を含む言語表現は、実在としての作品それ自体の内側に意味なる具体的な何かが随伴していて、それで意味を伝達しているわけではない。意味はどこにも書かれていない。だが、言葉が伝達すべき真意というのは確かにどこかにあるべきものであるような感じもする(では、そうした言葉の真意をどうやって決めようかと考えるとき、実在する発話者の意図にもとづくとする単純な意図主義や、解釈者の解釈のみによって発話者の意図とは無関係に決定されるとする解釈主義ではどうやらうまくいかないらしいことはすでに知られている)。

実は、このあたりに一つのわりと重大な罠があると思うのだけれど、言語コミュニケーションするうえで言葉の真意に迫ることは必須なことではない。実際、言葉の意味なんて事細かにわかっていなくても何かしらのコミュニケーションはとれているだろうし、コミュニケーションというのはそんなものだ。記号がもたらす情報の正しさというのは、記号が伝える情報をもとにして記号の消費者が適応的な行動をとれているとき、そのかぎりにおいて問われるものでしかない。もっと言えば、記号がもたらす情報が完全に伝わっていなくてもコミュニケーションは成立しうるし、記号がもたらす情報が完全に伝わっていてもディスコミュニケーションは発生する。だから、重要なのは意味ではない。

「夏の本棚にこけしが並んでる 地震がきたら倒れるかもね」と五島はいう。この作品のなかに私の言語にだけ存在しない語彙はないし、奇抜なコロケーションもないから「こけし」や「倒れる」が何かの比喩表現だったということもないだろう。だから、意味はわかる。だが、その先がない。やや挑戦的な読みかもしれないけれど、たぶん五島の作品のなかにはそういうゴールがそもそもはじめから用意されていないようなものが少なからずある。だから「何も言っていないに等しいのではないか」と一通り思って、あとは茫然としてみたり、そのまま素通りしていったりするのが、場合によってはかえって正しいリアクションなのではないかと思ったりする。

むすび

こぼれ話として、私の母はテレビにリアクションしながらテレビを見ていることがある。実害はないし、そういう慣習を身体化していてもべつにかまわないと思うのだが、それはそれとして。

いろいろと立場の違いはあるだろうけれど、たとえば短歌について評を書くタイプの人というのは、それが生身の人間による営みだと信じているからなんだよな、ということを考える。言語へのリアクションが意味をもつのは、リアクションする主体にとって、その相手が自分とのコミュニケーションの主体になりうる存在だと認識している場合だろう。テレビのキャスターがニュースとして彼の信念を伝えてきたとして、それに適当な返事を用意できることと、実際に返事をすることとはずいぶん違う。そういう慣習のもつ作用によって、コミュニケーションの主体たりうる実存のことをさしてこそ私たちは私性と呼んでいるような気がするのだが、それはまたべつの話。

Photo on Visualhunt