「詩的」な短歌のゆくえ

〈最善の相〉を読むということ

「基本的歌権」ということばが界隈で話題になった。

基本的歌権や何かについては、この方のように丁寧にまとめられる方がほかに現れると思うので、私がことさらがんばってまとめる必要もないと思う(そもそも私はこのことばがどういう経緯で話題になったかといったことを追いきれていない)。

基本的歌権ということばについては、「作品の創作意図は最大限プラスの方向で汲みとられるべき」という主張だと理解している。

これはいわば、作品の背後にあると考えられる意図はその〈最善の相〉を読むべきであるという主張と相似だろう。作品のなかのことばの配置があげる効果を最大限に認めたうえで作品を批評するのは、その解釈に説得力があるかぎりにおいて、フェアな態度のあらわれだと思う。それ自体はおかしな主張ではない。問題は、いわゆる読者主義と呼ばれる立場にあっては〈最善の相〉に最適解がないために、より説得力のある深読みができていればいるほど「よい批評」として評価されてしまって、作者主義の「よい批評」と相容れない点にある。

よい批評・わるい批評

読者主義とか作者主義とかいうのは、どのような観点からの評価を「よい批評」と見なすかの立場の違いをあらわしたことばだ(ここなどにまとめられている)。

これらの立場の違いは、短歌を通じたコミュニケーションのレイヤー(層)の違いとして整理できる。読者主義においてはテキストから読み解かれる意図と作者の意図とは独立したもので、そもそも作者の意図なるものを伝達できることはコミュニケーションの目的とされていない。一方で、いいね主義においてはそれを受けて「いいね」を押してもらえるような何らかの意図が伝達されることがコミュニケーションの目的とされているものの、それが作者の想定する「正しい」意図と一致している必要はない。作者主義ではさらに進んで、作者の想定する「正しい」意図が過不足なく伝達されることをコミュニケーションの目的としている。

ここで私は、意図という用語を「コミュニケーションを通じて読み解かれるべき情報の総体」というくらいの意味で用いている。私たちが短歌による言語コミュニケーションでやりとりする情報は、ことばの字義通りの意味に加えて、任意の文脈を注入すれば自明なものと考えられる情報を含む〈表意〉や、その情報を短歌として言明したことによって加わる〈高次表意〉、さらにそれらの情報から推論することによって導かれる〈推意〉といったレイヤーからなっている。こうした読み解かれるべき情報の「正しさ」、すなわち意図の解釈としての適切性が、コミュニケーションの目的の違いによって相を異にすることは想像に難くない。

斉藤が指摘するように、作者主義では「作者がやりたかったであろうこと」が、意図の解釈を制約する歯止めとして機能している。意図の解釈は本来、字義通りの意味と衝突しないかぎり読み手が自由におこなえるものだったが、作者主義の評がそこから逸脱する自由はない。作品から読み解かれるべき意図は「作者がやりたかったであろうこと」という〈最善の相〉を持っていて、そこによく肉薄する評こそが「よい批評」だと見なされる。一方、読者主義やいいね主義にはそのような〈最善の相〉はなく、それが論理的に矛盾なく導かれるものであれば、あらゆる読みが許容される。そこにおいて「よい批評」とは、作品のなかのすべてのことばの配置は必然的な要請によるものという善意の仮定をおいたとき、その効果を最もよく説明できているものである。

〈詩的効果〉のメカニズム

こうした「よい批評」のスコープの違いは何をもたらすのか。作品のなかのことばの配置があげる効果を〈詩的効果〉と呼ぶとき、それぞれの立場における「よい批評」が短歌をどのように捉えられるのか検討してみよう。

語用論の領域では、コミュニケーションを通じてもたらされる新情報がコミュニケーションの参加者が持っている想定に何らかの進展をもたらすはたらきのことを文脈効果と呼ぶ。〈詩的効果〉というのは、私たちが文学作品に対するときに文脈効果とともに生じるもので、私たちが文学作品の「良いところ」を好ましく感じる感情の背景となるもののひとつと考えられている。たとえば、内海(この論文など)は〈詩的効果〉が生じるメカニズムについて以下のような要件を想定している。

(a) 言語表現に内在する意図的なずれ(incongruity)によって多大の処理労力・負荷、心理的緊張が生じる。 (b) 言語表現の解釈が、ずれを解消しつつ処理労力に見合うだけの豊かな(rich)内容を含む。 (c) 豊かな解釈は、解釈の主体が何が起こったか判断できないほど一瞬のうちに生じる。

これは文学作品に内在するある種の表現が、その意図するところとして「豊かな解釈」へと結びつき、そのことが作品の「良いところ」を好ましく感じる感情につながるとするモデルである。

作者主義の「よい批評」は、作者によって仕組まれた「意図的なずれ」を指摘することができる点でこのモデルとよく対応している。すなわち、作者主義の批評が捉えられる作品の「良いところ」というのは解釈可能なものの解釈の源泉としての良さにほかならない。

しかし、慎重に考えればわかるように、私たちは解釈可能なものばかりを詩的に感じるのではない。内海もまた別の文献で認めるように、たとえばある種の詩的な比喩表現においては「認知的/美的効果を与えることが比喩の第一の存在理由であって、それらの効果を発揮する上で(漠然とした)比喩の意味があると考えるほうが自然である」ように思われる。つまり、実際には確度の強い解釈が困難であっても、なんとなく詩的に感じられるという場合があって、そうした感覚をも含めて私たちは作品の「良いところ」を認識していないだろうか。

読者主義やいいね主義の評では、作者が必ずしも想定しない意図であっても読み解くことが許容される。それは裏を返せば「作者が意図したかったかもしれないこと」のような、作者の意識の上に顕在化しなかった〈意図自体〉とでも呼ぶべきものに肉薄しうることを意味する。

「雨」

南風は柔い女神をもたらした。 青銅をぬらした、噴水もぬらした。 ツバメの羽と黄金の毛をぬらした。 潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。 静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした。 この静かな柔い女神の行列が 私の舌をぬらした。

(西脇順三郎『Ambarvalia』より)

たとえばこの詩を読むとき、少なくとも私は、何かうまく言い表せない詩的な印象を受ける。よくわからないが、これは確かに良いものだと感じる。作者である西脇がこの詩を通じて何らかの明確な意図を伝達したかったのかは実際のところわからない。だからこれは私の憶測だが、あるいは西脇にも自分がこの詩を通じて意図しようとしたことが明確には捉えられていなかったのではないか。そして、そういうことは短歌をつくるうえでも起こりうる。むしろ、私たちはしばしば、自分自身にも明確には捉えきれない〈意図自体〉に肉薄するための手がかりとして、詩や短歌といった文学的表現手段を用いるのではないだろうか。

このような作品に向き合うには、厳密な作者主義の批評はいささか誠実すぎる。作者主義では「作者がやりたかったであろうこと」を作品の意図を読み解くうえでの〈最善の相〉としていた。作品にこめられた意図が作者自身にも「よくわからない」ものだったと考えられる場合、その意図を解釈するプロセスはやはり「よくわからない」という最適解に陥るしかない。私としては、そこに作者主義による批評の限界を感じてしまうというのも事実なのである。

「詩的」であることの条件

内海のモデルは〈詩的効果〉が生じる過程を「意図的なずれ」が解消されるプロセスとして描いていた。文学作品の批評とはいわば、このずれが解消される過程を反省して、ずれを顕在化していく営みではないだろうか。

内海は、隠喩について「詩的」に感じるかどうかを調査した心理実験の結果を以下のように報告している。

理解容易な隠喩では解釈多様性と概念的適切性が詩的度に影響を及ぼす(つまり感情価は影響しない)のに対し、理解困難な隠喩では感情価のみが詩的度に影響を与える(つまり解釈多様性と概念的適切性は影響しない)という違いも示されている。このことは、理解容易な隠喩と理解容易でない隠喩では、詩的度認知の過程に何らかの違いがあることを示唆している

ここで「感情価」とは「隠喩の美的価値(美しさや味わい深さ)を表す指標」である。すなわち、確度の強い解釈が容易な隠喩では、隠喩の喩えとしての巧さが「詩的」かどうかの判断に影響するのに対し、確度の強い解釈が困難な隠喩では、ことばとしての美しさだけが「詩的」かどうかの判断に影響するらしいというのである。この報告は隠喩についての判断のみを扱ったものだが、私たちが文学作品に触れるときに感じる「好ましさ」の性質ともよく合致しているような気がする。

私たちが感じる文学作品の「好ましさ」はおそらく、しばしば私たちが期待したよりも直感的なものでしかない。そのようなとき背景に横たわるずれを顕在化し、説得力あるものとして説明づけるのに、作者主義の批評ではいささか心もとないだろうことはすでに述べたとおりである。もちろん、読者主義やいいね主義の批評を、歌会のように技術の習熟を目的とする場に野放図に持ちこむべきではないし、基本的歌権のような主張を真面目に取りあう必要はないだろう。それでもときには「作者がやりたかったであろうこと」から踏み出していく勇気が必要になることもある。そのことは忘れられてほしくないと感じた。