短歌を研究したい人のために

実証的短歌論の必要性

以前に書いた記事のなかで「歌評は難しい」という話をした。その記事は主に一首評のような評を念頭にして書いたものだったが、実際、短歌について何かを論じることは難しいことだと思う。

短歌について論じることの困難さは〈短歌する〉という営みの何を・どのように論じればよいのかよくわからない見通しの悪さにある。語弊を恐れずに述べるならば、現在の短歌論は理論・実証・応用の3つの研究の視座のうち、実証研究の部分がきわめて弱い。短歌を批判的に読むための理論は、いわば「理論短歌論」とでも呼ぶべきものが実証的な検討を十分になされないまま乱立しているがために、どのような理論に立脚したうえで読めばいいのかよくわからないという状況があるように思う。

実証的な検討と接続しない理論は、あえて厳しい言葉で述べるならば、ある種の信仰でしかない。もちろん、きちんと順を追って論理的に築き上げられた理論が世界のあり方をよく捉えるものであることは否定しない。しかし、実際のところ現在の「理論短歌論」がそこまで深化されている例は存在しないような気がしている。かつまた、現在の短歌論はちょうど天動説のように、「正しい」道具立てではあっても間違っているという可能性もありうるものである。「正しい」道具立てとして機能するのならそれで充分と考えることも確かにできるだろうが、短歌批評がそのような信仰に過ぎないものに立脚しつづけることが短歌の批評空間を思弁的なものにしている面はあるのではないか。

短歌論を実証的な検討にもとづいて見通しよく展開するためには、すでに実証研究によって検討が進められつつある理論をほかの学問分野から輸入しつつ、既存の短歌論の整理をおこなうのが近道だろう。ただ、近道だろうなどと言いつつ、具体的にどこから手を付ければいいのかすら見通しづらいのが現状である。そこで、この記事では短歌論と接続しうるようなほかの学問分野における研究例をいくつかの短歌論のキーワードを出発点に概観してみることにする。

注意点として、この記事で挙げる研究例は私が独自に調べたものであり、キーワードに関連する研究を厳選して紹介するようなものではない。また、私は各研究分野の専門家ではないので、研究例がいわゆるトンデモ研究でないという保証はない(たぶん大丈夫だとは思うが)。

レトリック

レトリックとは、ここでは、情報の伝達以外の目的を達成するために用いられる技法のことだとしておく。レトリックによって読み手にもたらされる表現効果は「詩的効果」などと呼ばれることが多い。読み手に詩的効果がもたらされる理論モデルについては、たとえば、橘髙眞一郎「文学性の生成モデル」で3つのモデルがまとめられている。それらのなかでも、関連性理論や認知科学における認知的ずれを取り入れた内海彰の研究は日本語であるため比較的読みやすく、アクセスもしやすい。

内海は「一般原理としての審美的・対人的効果の認知モデルを提案し、そのモデルが個別の修辞的文彩の持つ効果をどのくらい説明可能かを明らかにするというトップダウン的アプローチ」と「修辞的文彩の種類に応じてどのような審美的・対人的効果があるかを分析し、その認知メカニズムを解明するボトムアップ的アプローチ」の両面から研究を進めることを構想している。具体的には隠喩について「詩的度」の評定を求めた心理実験などがあり、その研究では、理解容易な隠喩と理解容易でない隠喩では詩的度認知の過程に何らかの違いがあることが示唆されている。

韻律

皆川・鈴木の研究では、俳句の鑑賞文の定性的分析をもとに、有季定型・写生派の選句・選評の観点がおおよそ次の6つの観点に要約されると述べられている。

1.情景のわかりやすさ 2.リズムのよさ(切れ) 3.季節感(季節の風物への感動,季語の重み) 4.独創性(着眼点のよさ,表現力) 5.作者の心情への共感 6.余情(想像の余地)

これは俳句の評についての考察だが、短歌の評の観点としても少なからずあてはまるように思われる。韻律はこれらの観点のうち「リズムのよさ」の背景となると考えられる要素である。

言語音において(談話を構成する単位としての)句以上の範囲にわたって観察される、繰り返しをともなうような音声パターンのことを音韻論の用語で韻律と呼ぶ。ただ、韻律現象が音声的にどのようなものとして実現するかはよくわかっていない部分が多い。とりわけ短歌のような韻文の読み上げは平文の読み上げとは性質の異なるものとして実現するらしいことが知られていて、そのことが韻律をトップダウン的に研究するうえでの混乱のもとになっている。

桐越の研究では、句頭子音から次の句頭子音に至るまでのポーズを含むまとまりを「韻律フレーム」として仮定したうえで、韻律フレームの時間長の組み合わせにいくつかの型があることが示唆されている。また、渡辺・小磯の研究では、さまざまな調子になるように単語を読み上げた刺激音について被験者にリズムのよさの評定を求める実験の結果が報告されており、少なくとも詩歌や標語などでない単純な単語の羅列であっても5・7調や7・5調の場合のほうが日本語母語話者にはリズミカルに感じられるらしいことが示唆されている。この研究では5・7調と7・5調について休止を含めたリズムの仕組みについても検討されていて、7・5調では休止長が0拍・1拍のときに、5・7調では休止長が2拍・3拍のときにリズムがよいと評定される傾向にあるとされている。

文体/構造

上で挙げたような研究がある一方で、私たちが短歌を目にしたときに受け取る「リズム感」とはそもそも聴覚的な印象にとどまらないものだという考え方もありうる。以下の記事が紹介している岡井隆の「韻律イメジ」という用語などはその例だろう。

口語にとって韻律とはなにか   ――『短詩型文学論』を再読する――|awano|note

この記事によると、岡井の提案する韻律概念は「等時拍リズム」「意味リズム」「韻・音色のリズム」「句分けのリズム」「視覚的リズム」の5つに分解されるものだという。このうちの「句分けのリズム」とされているものが韻律の項目で紹介した研究が実体に迫ろうとしているものだろう。それに対して「意味リズム」「韻・音色のリズム」「視覚的リズム」といったものは、その背景として、語の選択やいわゆる漢字の開き方のような「文体」だったり、どこに統語上の切れ目があるかという「構造」だったりを想定すべきものである。だが、残念ながら「文体」や「構造」が私たちの受ける作品の印象に及ぼす効果を実証的に検討している論文は、おそらくない。

「文体」そのものに関連する研究としては、計量文体論の研究ならたくさんあるので、探すのにはそれほど困らない。文体的特徴をどのように捉えられるかは一概にはいえないが、品詞構成率などはしばしば用いられる特徴量である(中尾など)。ただ、計量文体論的なアプローチはある程度まとまった分量のテキストを「同じ文体が実現しているもの」として扱うものなので、個々の短歌作品の文体について何かを論じたい場合には地道に内容分析する必要があるだろう。

「構造」との関連に引きつけて挙げるとすれば、金川・佐原・岡留の研究は、「構文間距離」を統計的に扱うことで作家の構文上のクセを文体的特徴として定量的に比較するというかなり独特なことをしている。この論文はやや高度だが、文構造の違いを比較している研究例としておもしろい。また、ここまで徹底して機械的に処理しないまでも、短歌のようにしばしば断片的な文の構造を分類するうえでの規則のようなものについて研究されていることもある(新田など)。