どこでもないどこかとしてのあの夏のこと
どこでもない場所に立っているという感覚がある。私自身は、確かにいまここにいて、そのことをきちんと現実感をもって感じてはいる。だからこれは私の乖離感ではないのだが、私の立っている場所はあるいは、他者からして、どうしようもなくフィクショナルな地点なのではないかという感覚がある。
目の前にポニーテールが揺れていてそよいだ風の意味は知らない
/ねむけ
ここで取り上げる「ねむけ」はインターネットで短歌をやっている人で、TwitterのFFにいる。生身の彼のことはよく知らないけれど、彼の短歌は彼がうたよみんに短歌を投稿していたころから知っているから、ずいぶん以前から知りあいのはずだ。
彼の短歌に彼は登場しない。事実か虚構かでいえば、たぶん彼の短歌はすべて虚構なんだと思う。それもほとんどが具体的な下地のない種類のフラットな虚構で、現実味を感じさせない。
まさかりを担いだ女子を二度見して、今ゆるやかに夏が始まる
/ねむけ
その世界には、それぞれにこの世界と異なる物語があり、独特の時間が流れている。
シャンゼリゼ通りに消えた恋人にハンターハンター貸しっぱなしだ
/ねむけ
私たちが目にしているのはそうしたフィクションから切り出された一片で、それぞれの世界はそれぞれに独立しており、とくに脈絡はない。ただ、物語やシチュエーションの設定のしかたには独特の癖みたいなものがあって、その着眼点がねむけという歌人らしさを感じさせる源になっている。
【指令6】祭りのあとの境内で「好き」に繋がるしりとりをせよ
/ねむけ
夏は彼の作品のなかに比較的よくあらわれるモチーフのひとつだ。それらは共通して、夏を舞台にしたアニメ作品やゼロ年代以降のADVゲームに描かれそうな臭いというか、ある種の空気感をともなっている。いや、この喩えはあまり上手くないかなと思うのでことばを補うけれど、つまり、私たちは誰もそれらの夏を実体験としては知らないはずなのに、ある馴染み深さを感じるということを指摘したいのだ。
夏風に少女は揺れてこの星の照度をはかる水準になる
/ねむけ
この夏風が吹く夏だってフィクションで、どこかの個別具体的な夏の記憶に接続するわけではない。だから、私たちはこの夏を実際には知らないうえで、この夏がどんな夏だったかを想像しようとするのだが、そのとき私たちはここに描かれる夏の内容としてステレオタイプな夏のイメージを注入する。作品の描く物語はそうして注入された架空の夏のなかで繰り広げられる。そのステレオタイプな夏は確かに私のステレオタイプであるはずなのだが、私の実体験をもとに形成された部分はむしろ限られている。架空の夏のなかに立ち現れる主体は、夏らしい物語をみずみずしく演じてみせるのだが、私はといえば、必ずしも夏にそのようなみずみずしい想い出があるわけではない。そういう意味において、主体は私の想像するステレオタイプな夏をかえって私よりも充実したリアリティをもって演じているようにさえ見える。
これらの夏はおそらく実在する誰の実体験でもないという意味でどうしようもなくフィクショナルなものだ。フィクショナルな物語というのは、この私の記憶ではないために、具体的な過去を想起するのではなく、ステレオタイプなイメージをあてがいながら想像することによってしか追体験できない。しかも、そのステレオタイプはしばしば個人の実体験よりも、むしろデータベース消費的に引き出される公約数的な小さな物語に由来している部分のほうが大きい。フィクショナルな物語をこのようなものとして捉えるならば、それはあるいは、私の実体験に取材した物語ですらも私以外の他者からしてみればどうしようもなくフィクショナルな物語であることに変わりはないということではなかったか。
具体的な個人の物語までもが虚構の物語と同等に消費される地点にあって、私たちは孤独だ。
階段の途中地点を踊り場と呼ぶわたしたち きっとさびしい
/ねむけ
なぜ、「踊り場」という生き生きとした語感のある名をそなえた地点が孤独と結びつくのか。これは私の個人的な解釈でしかないけれど、それは私たちの想像する踊り場がいずれも現実にある場所に接続するどこかではなくて、どこでもないどこかだからではないだろうか。私たちが想像した踊り場へと下り立つ人影は、一見生き生きとしたリアリティのある世界を生きているように見えながらも、その実、誰の個別の記憶とも隔てられた地点に立っている。物語のなかの主体は誰しも、いわばそのように他者の具体的な記憶から隔てられたセカイ系的な世界を生きているのであって、そのような世界を「踊り場」と呼びつつ想像することは、かえって彼らのさびしさを際立たせはしないか。あるいはまた、そうしてセカイ系的な世界に立ち入る人影とは、まさに物語のなかに立ち現れる私たち自身でもありうるのだから。
俵万智のサラダ記念日の歌が実際にはからあげを褒められたことに由来する歌だというのはわりと有名な話だし、私たちが語りだすことの事実と虚構との境目は曖昧なものだ。また、それを事実と認めるか虚構と認めるかにかかわらず、個別の物語はしばしばデータベース消費的にイメージをあてがって想像されることによってしか内容を見いだされない。そういう小さな物語の重ね合わせのような世界のなかにおいてしか自己を語りだすことができない状況についてべつに不満があるわけではない。ただ、私たちはフィクションを模倣することによってしかノンフィクションを演じられずにいるということをたびたび考えることがある。あるいはまた、他者にしてどうしようもなくフィクショナルでしかないだろう生のなかにあって、そういう生を生きるという孤独こそが私たちを辛うじて結びつける紐糸なのではないかとも。
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