花水木の歌の意味論
この記事について
土岐友浩さんの以下のコラムが話題になっているので書こうと思った記事です。
月のコラム
短歌という詩型は、発展よりも存続を上位に置くべき価値観が支配的である。この「月のコラム」を書き始めるにあたって、僕はまず、そのことを確認しておきたい。 この価値観の上下構造は、歌人個々の資質がどうであろうと、関係がない。短歌を選ぶことは、避けようがなく短歌の存続を選ぶことを意味する。短歌の発展を望む歌人が、しばしば苦しむのはこのためだ。 ...
コラムでは、吉川宏志の次の短歌について、解釈が分かれることがあるらしいといった話がなされています。
花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった
/吉川宏志『青蟬』より
この短歌において、事実として、作中主体が「愛を告げられた」のか「愛を告げられなかった」のかは言明されていません。したがって、大前提として「愛を告げられた」のか「愛を告げられなかった」のかは結局のところ読者の想像に任されるところではあるのですが、コラムでは「愛を告げられなかった」解釈が「広まりつつある」らしいことを指摘したうえで、その理由について考えを進めています。
文学において何がどのように書かれ、読まれているかについて、その分かれ目を「世代」の差異によって説明づけようとすることは、それ自体とても魅力的な試みです。ただ、個人的な感想としては、このような議論を世代論に帰着させることには慎重であるべきでないかと思います。実際、文学作品についての世代論をまじめに実証しようとするのはとても難しいことで、確証バイアスを退ければ、いつの時代にもそのように読まれうる作品は存在したのではないかという話になりがちです。したがって、そもそも吉川の短歌について「愛を告げられなかった」と解釈するような読みが新たに広まりつつある解釈なのかがやや疑わしい部分ではあります(もちろん、それを差し引いても興味深い記事ではありますが)。
いずれにせよ、解釈がわかれる表現というのは日常的にもしばしば出会うことがあるものです。かいつまんで指摘しておくと、それらはたとえば「pならばq」という条件文の形を取るような表現であり、それが「実際にはpでない(したがってqでない)」という反実仮想としても機能しうるものです。この記事では、花水木の短歌のような条件文について解釈が分かれることがあるのはなぜかという点について、条件文に関する意味論的な観点からの分析を参考にしながら説明します。花水木の短歌について、なぜ解釈にぶれが生じるのかを考えるためのひとつの補助線として読んでいただければと思います。
条件文について
条件文の解釈について検討するとき、とりわけ古典論理において定義される性質から導かれる条件文の解釈を実質含意といいます。ここではとくに深入りして解説しませんが、「pならばq」という条件文について、pに相当する部分は前件、qに相当する部分は後件と呼び、p,qがそれぞれ真であるかによって条件文そのものの真偽値は次のように変わります。
p | q | p → q |
---|---|---|
真 | 真 | 真 |
真 | 偽 | 偽 |
偽 | 真 | 真 |
偽 | 偽 | 真 |
ところで、この実質含意は私たちの日常的な言語感覚からすると不自然な真偽値を導いてしまうことがあります。「このコインを投げて表が出たならば日本の首都は東京だ」という条件文について考えてみましょう。この文の後件「日本の首都は東京だ」は真なる命題です。一方で前件である「このコインを投げて表が出た」はそのときによって真偽値が変わります。もしも前件が真(コインが表である)であったなら、前件も後件も真なので、条件文そのものは真になります。しかし、仮に前件が偽(コインが表でない)であっても、そもそも後件が真であれば条件文そのものは真になります。これは私たちの日常的な言語感覚からするとなんだか不自然かもしれません。
あるいは「村上春樹がノーベル文学賞を受賞していれば、阿部寛はアカデミー賞を受賞する」という文はどうでしょうか。「村上春樹はノーベル文学賞を受賞していない」は真なので、前件は偽です。実質含意では前件が偽であれば条件文そのものは真になるため、「村上春樹がノーベル文学賞を受賞していれば、阿部寛はアカデミー賞を受賞する」は真になります。
このような実質含意の不自然な点は実質含意のパラドクスと呼ばれるものです。条件文の真偽値がこのように必ずしも自然に思われないものとして設計されていることにはいろいろと歴史的な経緯があって、そのあたりの不整合を解決する厳密含意といったものも提案されているのですが、ここでは詳しく解説しないでおきます。
反実文としての条件文
ポイントとして、条件文の真偽値は、少なくとも前件か後件どちらか一方の真偽値が確定しなければ確定できません。また、私たちの日常言語の論理体系は古典的な実質含意と必ずしも整合するものではありません。したがって「pならばq」という条件文の意図する事態を本当に正しく解釈するためには、結局はp,qの真偽値とp→qという条件文そのものの真偽値をすべて確かめる必要があります。
それにもかかわらず、私たちがときにあえてみなまで言わずに条件文という形式でものごとを表現することがあるのは、もし仮にそれで正しく解釈してもらえるのならそのほうが楽だし経済的であるというコミュニケーション上の方略によるものだと考えられています。基本的な発想として、私たちは言わずともわかるだろうことについては取り立てて述べることはしないという方略にしたがってコミュニケーションをおこなっています。
そのため「(もし仮に)pならばqである」という事実を取り立てて述べることがあるとすれば、それは大抵の場合、「実際にはpではない」ということを含意する反実文になります(もしも現実にpが真であるならば、pを前件とした条件文のかたちにする必要はなく、単にqを述べるだけで十分なため)。このことは「もし雨ならば運動会は中止だったのに」という文が発話される自然な場面を考えてみると、現実には雨でない(したがって運動会は中止でない)だろうことからも納得できると思います。
事態のドメインについて
ところで、この文が「もし雨でも運動会は中止だったのに 」だったとするとどうでしょうか。この文が発話される自然な場面を考えてみると、やはり現実には雨でないだろう点は上の文と同様ですが、こうなるとなんだか現実にも雨とはまた別な理由によって運動会が中止になったような感じがしてきます。また別の例として「もし雨でも雪でも運動会は中止だったのに」ではどうでしょう。これは先ほどの文とほとんど同じような意味に見えますが、詳細に意味分析をすると、実は微妙に前件の構造が異なっており、「もし雨でも運動会は中止だったのに 」とはニュアンスが変わっています。
手がかりとして、それぞれの文に運動会が中止になったかもしれないその他の事態を付け加えることを想像してみましょう。まず、「もし雨でも運動会は中止だったのに 」については、たとえば「校庭に地割れが起きても」とか、「宇宙人が突然UFOでやってきて街ごと学校を破壊してしまっても」とか、いくらでも考えられそうです。その一方で、「もし雨でも雪でも運動会は中止だったのに」では、「校庭に地割れが起きても」や「宇宙人が突然UFOでやってきて街ごと学校を破壊してしまっても」というのは「雨でも」や「雪でも」といった事態と並列してしまうには少し不自然な感じがします。
この異なりは、前件のなかにある並列関係についてどのような単位が並列されたものと捉えるかの違いによるものです。端的にいうと、「もし雨でも運動会は中止だったのに」における〈でも〉が事態をあらわす命題を並列していると解釈できるのに対して、「もし雨でも雪でも運動会は中止だったのに」における〈でも〉は「天気が」という暗黙の主部に対応する述部を並列していると解釈できます。
やや微妙な書き方ですが、「もし雨でも運動会は中止だったのに」は雰囲気としては以下のような構造をしています。
- ∀(x)( (天気(x) ∧ 雨(x)) ∨ … ) ) ⇒ 運動会は中止だった
これに対して、「もし雨でも雪でも運動会は中止だったのに」では以下のような構造になります。
- ∀(x)( 天気(x) ∧ (雨(x) ∨ 雪(x) ∨ … ) ) ⇒ 運動会は中止だった
ここで、1と2では、自然な並列関係にすることができる事態の範疇(ドメイン)が異なっています。2においては「xについて、xは天気であり、かつ、F(x)である」という構造に上手くあてはまるような述語F(x)が並列されると考えるのが自然であるため、述語F(x)は自ずと天気の話に限定されます。一方で1においては「xについて、F(x)であり、かつ、G(x)である」という構造にあてはまるような命題が並列されればよいだけなので、並列される命題が天気の話ばかりとは限りません。
並列関係にある要素の否定
さて、私たちが「(もし仮に)pならばqである」から「実際にはpではない」という含意を引き出すらしいことは、すでに確認しました。つまり私たちは反実文を解釈するとき、とりあえず前件の否定をとるということです。では、「もし雨でも運動会は中止だったのに 」と「もし雨でも雪でも運動会は中止だったのに」という例文が反実文として解釈されるとき、前件の否定はどのようなものになるのでしょうか。
まず、「もし雨でも運動会は中止だったのに 」の前件を否定する場合、私たちはおそらく次のようなやり方で否定をとっています。
1’. ∃(x)( ¬(天気(x) ∧ 雨(x)) ∧ … ) ) ⇒ 運動会は中止だった
すなわち、ここでは並列されるすべての命題について、それらの全否定をとっています。したがって「もし雨でも運動会は中止だったのに 」からは、実際には「(天気は)雨でない」や、考えうるその他の事態についてもすべて真でないという含意が導かれます(形式的には ¬(天気(x) ∧ 雨(x)) はxが天気でないだけでも真になりますが、xが雨である/でないというのは天気の話であることとワンセットなので、このレベルの否定にとどめています)。
その一方で、「もし雨でも雪でも運動会は中止だったのに」の前件を否定する場合には、私たちはどうやら次のようなやり方で否定をとっています。
2’. ∃(x)( 天気(x) ∧ ¬(雨(x) ∨ 雪(x) ∨ … ) ) ⇒ 運動会は中止だった
ここでなされているのは、「天気が」という暗黙の主部に対応する述部の否定です。そのため「もし雨でも雪でも運動会は中止だったのに」からは、実際には「(天気は)雨でないし、雪でない」という形の天気に関する含意だけが導かれます。
花水木の短歌の解釈
ここまでで見たように、並列関係にある要素に、たとえば「天気が」のような共通の主部を見出すかどうかによって、反実文の解釈のしかたは2つのパターンに分けられることがわかりました。このように考える前提で、いよいよ、花水木の短歌について解釈がぶれる地点を考えてみましょう。
「花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった」について、まず1と同じ構造の文として捉える場合を考えます。
1’’. ∃(x)( ¬(花水木の道(x) ∧ 長い(x)) ∧ ¬(花水木の道(x) ∧ 短い(x)) ∧ … ) ) ⇒ 愛を告げられなかった
この前件の否定を平易な表現に直せば、実際には「花水木の道は長くなかったし、花水木の道は短くなかったし、その他の考えうる事態もすべて偽だった」ということです。実際に考えうるあらゆる事態が偽だったというのですから、ここで花水木の道がどうだというのはいずれもいわばもののたとえであり、言っていることとしては「何がどうあれ愛を告げられなかった」というのとイコールです。したがって「花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった」を1と同じ構造の文と捉えると、実際には「愛を告げられなかった」という解釈が導かれます。
これに対して、この文を2と同じ構造のものとして捉えると次のようになります。
2’’. ∃(x)( 花水木の道(x) ∧ ¬(長い(x) ∨ 短い(x) ∨ … ) ) ⇒ 愛を告げられなかった
前件の否定は、実際には「花水木の道は長くなく、短くなく、また他のどのような状態でもなかった」と述べるにとどまるもので、話の焦点はあくまでも花水木の道のことにあります。したがって、この文が実質的に言っていることは「もしも仮に花水木の道がどうであったとしても愛を告げられなかった」ということで、ここからは花水木の道がまさにそのようなものであったために、実際に「愛を告げられた」という解釈が導かれます。
むすび
この記事では、花水木の短歌のように「pならばq」という条件文の形を取る表現でありながら「実際にはpでない(したがってqでない)」と解釈できる反実文について、その解釈が分かれることがあるのはなぜかを検討してきました。そして、そのようなぶれのある解釈が得られるしくみとして、(1) 反実文がその前件の否定を含意するものであること、(2) 前件が並列関係にある複数の事態からなる場合、事態のドメインに制約を見出すかによって、前件の否定のとり方が異なることを確認しました。
以上の議論はけっして学術的に洗練されたものとはいえませんが、おおよその着眼点としては的を得たものだと考えています。この記事をきっかけにしてこのような意味分析に関心を持たれた方のために、以下にこの記事を書くうえで参考にした文献を挙げておきます。
- 久木田水生(2012)「条件文の論理」
- 竹内泉(2003)「様相論理の文脈意味論」