自己語りと短歌という文体

短歌という文体

長いあいだ言えずにいたことというのがある。私の父が認知症になったのは、私が高校生のころだったが、そうした家庭の事情を友人にうち明けたことはなかった。友人との会話に上るのは当たり障りのない話題ばかりで、私の場合、父親のことのような比較的深刻な悩みを相談するための言語を当時は持ち合わせていなかった。

私が短歌をはじめたのは、いろいろなものに耐えられなくなり、うつ病になりながら、やっとの思いで大学を出たあとのことだ。私の最初期の短歌は文語体で、暗い内容のものが多かった。それでも、そういう暗い内容のものごとを言語化しうるようになったのは当時の私にとって心強いことだったし、暗い世界に真摯に向き合うことによってこそ、本当の意味での光を見いだせるのではないかという確信めいたものさえ感じていた。

短歌でなければ語りえないことがあるのかはわからないが、短歌だから語りうることはおそらく存在する。少なくとも私にとってそれは、家庭のことであり、父親のいる暮らしのことだったわけだが、それらのことを語りだすために、私が文語短歌という形式を選んだのは偶然ではなかったように思われる。

演技としての短歌

今日の文語短歌はいわゆる〈コスプレ〉であるという批判は山田航や枡野浩一などが述べていることだ。たとえば、山田は現代短歌における文語の使用について「『昔の人の文体』というよりも『中二病の文体』というイメージの方が強い」とし、そうして語られることばは「コスプレの匂いを帯び、放たれるそばから虚構化されてゆくしかない」という。

〈コスプレ〉ということばの背後には、コスチュームの下に隠されている素の自分があるという含みがある。さらには、こうした〈コスプレ〉に対して批判的な文脈においては、素の自分ではない文体を借り受けて何ごとかを語りだすことはときに不誠実なことであるとされる。しかし、「演じること」と「本当にそうであること」との対置は必ずしも鮮明におこなわれるものではない。むしろ、両者は重ね合わせられた、不可分なあり方として理解されるべきである。

ゴッフマン的な世界観に立つならば、「自己」とは社会的ゲームの産出結果であって、その原因ではない。社会のなかで立ち現れる「自己」は周囲からの期待を反映して、ステレオタイプ的な役割(発話キャラクタ)を演じた結果であるという意味でフィクショナルな存在であり、私たちはそうしてフィクションを模倣することによってしかノンフィクションを演じられずにいる。そして、これは私見だが、ことばのリアリティにかかわるのはその文体の巧みさ(役割との距離感)ではなく、その文体がこの私にとってどれくらい板についたものであるかという身体化の程度である。

「奪われてあるもの」としての私性

社会のなかで「かけがえのない」あるいは「ほかならぬたった一人の」個人を同定するための手がかりとして、ゴッフマンは、身体とバイオグラフィー(個人史)を挙げる。これらは固有名をもつ個人への関心の〈かなめ〉として機能しているものだ。ところで、世界の社会学化が充分に進行した現代では、個人が私的な存在として提示されることはない。個人の身体性に由来する感覚や内的情感は、演じられるべき役割との隔たりとして認識されるにすぎず、必ずしも〈いまここ〉おける私の思うままに表出されるものではない。

すなわち、アレント風にいうならば、私性(privé)とは「奪われてあるもの」にほかならない。私たちは「素の自分」なるものを「素の自分」のまま語りだすためのことばをそもそも備えていないのである。私たちは個人としてのことばを持たない。語るべきことばと役割とは堅く結びつけられている。選びうるのは「自己」を語ることばではなく、役割のほうであり、役割の埋め込まれた状況である。

語り口について

文体というのは、表面的にはことばを使うその人の言葉づかいのことだが、ここではむしろ語られるものごとの雰囲気のほうに重点がある。私たちは自分が身体化した文体の許容するかぎりにおいて、自分がいかにも語りそうなことを語っているにすぎない。実際、期待される役割に照らして「らしくない」ために、思っても口にできないものごとというのはたびたびあったりする。

文体とはつまり語り口のことであり、世界に対するモダリティにほかならない。そして、私たちの採るべきモダリティは、周囲の状況から強い制約を受けている。周囲の状況というのは、短歌の文脈でいえば、歌壇とか結社といった共同性や、社会情勢のような公共性のことだ(望むのなら、あるいはそれらを文体の共同体と表現してもよい)。これは私の感じ取ったところにすぎないが、短歌という文体は、殺伐とした社会のようすを素描しつつも、そのなかにひそむ光を汲み取るものであるように思う。しかもそれは、自然な口語を駆使した短歌よりも、文語を用いた短歌に典型的に感じられるイメージだった。そう感じたがために、私は、私にとって重いテーマを語り出すうえで文語体の短歌を選択した。短歌のような文体が日常の言語には語りえないような重いテーマを語りうるという私の感覚は、あるいは「介護短歌」のような営みがあることにも由来していたのかもしれない。

共同性をやぶるもの

短歌をつくる人は、しばしば〈独自の文体〉の確立ということを口にする。しかし、この〈独自の文体〉というのは不思議なことばだ。私たちは私たちを取り巻く状況が期待する役割を演じているのであって、求められる演技の内部に独自性はない。では、その独自性とはどこにあるのだろうか。

それはおそらく、共同性に代わりうるものとしての個人性だろう。私たちは社会的ゲームのなかで演技を繰り返し、その経験を「自己」として囲い込んでいく。そうして役割の身体化を進めることで「演じること」はリアリティを色濃くし、「本当にそうであること」へと傾いていく。ただし、それは「素の自分」としての私性(privé)ではない。「素の自分」はことばを奪われている。それはむしろ、この世界においてある役割をリアルに生きる個人の、そのリアリティが開く、新たな「役割の典型的な物語」ではないだろうか。

この新しい「役割の典型的な物語」を個人性と呼ぶとき、個人性は既存の共同性を代置しうる次世代の共同性として機能する。

共同性とは最終的に語り口として現れるものの謂いである。「袋は袋を破れるか」とあるいまはない現代詩人が語ったことがあるが、語り口を殺すものは別の語り口でしかない。その意味は、共同性に代わるものは、個人性であり、公共性だとしても、それらの対置、代置には、まず、共同性と同じ世界の住人である私性による、その殺害が、必要とされる、ということなのである

(加藤典洋「語り口の問題」より)

この引用で加藤が述べようとしていることは、文学という営みの本質的な部分に迫っているように思われる。あるいはそれは、ロラン・バルトが『彼自身によるロラン・バルト』のなかで「文学にとって前衛とは、あるものが死んだと知っていることである」といったことに通じるものだ。共同性を越えていくものは新たな共同性であり、文体に取って代わるのは新たな独自の文体でしかない。そして、独自の文体とは、月並みだが、借り物の文体の模倣を繰り返す過程においてのみ、開かれていくものなのである。

ブックガイド

とりとめのない文章ですが、参考にした文献を挙げておきます。

Photo credit: AstridWestvang on Visual hunt / CC BY-NC-ND