実は短歌論を1ミリも知らない奴が私性について考えるとこうなる

私性ってなんだよ

短歌をやっているとたまに私性という言葉に出くわす。短歌というのは誰かの語りであって、その語り手のどうのこうのというアレである。

私性とは何なのか。この疑問はおそらく現代文学における「私」とは何かという議論に通じるものだろうが、そのことは短歌における私性を語る文脈においては必ずしも意識されていないように見える。

たとえば、本田一弘は「『私性』とは何か」と題した時評のなかで、短歌における私性とは何かを考える手がかりを探っている。本田はまず寺井龍哉の「うたと震災と私」という評論を紹介し、「引用した震災詠においては作者と作中主体とが強固に結合」しており「そこで私性は束縛となるよりもむしろ公共性をひらく磁針となるはずである」という寺井の論を引用している。次に、渡辺松男による「吾のなかの何人の吾かなんにんの吾のなかの吾か秋うろこぐも」といった歌を引用しつつ、渡辺の歌においては「第二芸術論や前衛短歌運動が否定」しようとしたような確固たる「われ」が存在せず、「つねに変幻自在の不安定な複数の『われ』」が描かれていることを指摘する。そのうえで本田は、「『公共性をひらく磁針となる』ような確固たる現実の一人の何かが『私性』なのか、それとも渡辺松男の歌に繰り返しでてくる変幻自在の『われ』のように柔軟で捕らえ所のない複数の何かが『私性』なのか」という疑問を投げかけている。

「私」はどのようにつくられるか

このような混乱を招くのは、私性が場合によって二つのものを指しうるからにほかならない。一つは渡辺の歌にあらわれるような断片的な語りとしての「私」であり、もう一つはそれらの「私」を一定の関心のもとに再構築してできる「私」である。

前提として、私たちが「私」というものについて語るとき、その対象はけっして不変不滅の実体のようなものではない。

人間は成長したり、老いたりするものである。小学生のころの「私」といまの「私」とでは身体的にまったくの別人といっていいだろう。また、考えたり感じたりしていることだって違うはずで、たとえば今朝「仕事いくのだるいな」と考えていた「私」と夜に楽しくお酒を飲んでいる「私」とでは、ほとんど別人だとも言いたくなる。その別人っぷりというのはけっこう重大なもので、だからこそ、そのとき自分がどんな気持ちだったのか自分でも想像するしかないといったことは誰しも経験があるものだろう。

また、私たちは自分という存在を四六時中意識しているわけではない。とりわけ、言語表現としてあらわされる「私」というのは断片的なものである。連続なのは私たちが暮らしている時間と空間のほうで、私たちが考えたり語ったりできるのは、あくまで不連続な「私」にすぎないのではないか。

「私」とは、このように本質的に不連続で同一性を欠いたものである。一方で、ふつう私たちが語りだす行為や出来事は、何の脈絡もないものとしてあるがまま記述されるのではない。それらは語り手のそのときどきの視点や意図のもとで、物語的に編成されて提示される。私たちはいわば「私」の物語にとって意味のある要素だけを選択・強調することで、「私」というものをアドホックに構築して語りだしているのである。

そのようにして語りだされる「私」に関する語りの集積を、私たちはしばしば「自分」と呼ぶ。図式化を恐れずに言うならば、先の本田の文章における「第二芸術論や前衛短歌運動が否定」しようとした「われ」とは物語的に編成された「自分」のことであり、渡辺の歌にあらわれる「つねに変幻自在の不安定な複数の『われ』」とは、あえて物語的に編成するプロセスを経ずに語りだされる「私」のことである。渡辺の歌はたしかに「われ」の語りだが、その「われ」は物語的自己としての「自分」ではない。それゆえに、渡辺の歌にあわられる「われ」は「独特の不思議な存在感というか浮遊感」を伴う、どこか多重人格的なものに映るのである。

内的根拠の不在

渡辺の「われ」のような私性と向き合うとき、私たちが意識しておかなければならないのは、そのような様式の語りが生まれるにいたった背景だろう。それを考えるうえでは、田中弥生による文芸評論「乖離する私――中村文則――」が有用な指摘をしている。

田中は金原ひとみ、綿矢りさ、中村文則といった芥川賞作家の作品が「主人公の感情を本人の目の端に、『私』が見ていないもの(=背景)として書く」という共通点をもっていることを指摘する。田中によれば、このような感情からの乖離感を主題にした作品群は、社会生活上、自らの感情をコントロールする技術を身につけた人々を「第一世代」としたとき、それに続く「第二世代」にあたるという。

田中のいう第二世代においては、感情は外的な環境に過ぎず、行為をなすうえでの内的根拠にはなりえない。それは「自分」を物語的に語りだすための動機の不在を意味する。第一世代では行為の動機はまだ自明のものであり、行為を物語的に語りだす際には、その必要に応じて行動の根拠を反省しさえすればよかった。一方で、第二世代の人間にとって感情は描写の対象にはなるものの、行動の根拠になりえるものではない。そこで彼らは、あらかじめ「自分がとるある行動に対し、いくつかの『説明の可能性』を保持しつつ、その可能性を三人称的に『私』と呼ぶ」という癖をもつことによって、内的根拠の不在を代替しようとする。

こうして立ち現れる私性は、物語的自己として再編される前段階のもので、しばしば多重人格的になる。そこにおいて「自分」とは「多数の『私』が生きる一定の空間、場を指す」ものであり、他者からの求めに応じてはじめて構築され、引き受けるべきものに過ぎない。それは一方で「公共性を開く磁針となる」ような責任ある主体として構築され、また一方では多数の「私」を一定の物語的解釈のもとに置いて「束縛する」枷となる。

いずれにせよ、第二世代にとって「自分」を物語るということのうちには、「私」の説明の可能性を絞り込ませるという暴力性が潜んでいる。それは現時点において説明の可能性を最大化しておきたいと願う「私」にとって忌避されるべき暴力にほかならない。その暴力に抗うべく、第二世代の「私」の語りは断片化することになるのである。

物語的自己と自己同一性

しかし、そもそもなぜ断片的な「私」とはべつに「自分」という物語的自己が要請されるのだろう。私たちは他者の物語を受容するとき、その物語の主人公を読み取ろうとする。それはテクストを物語的に受け取るうえで自然な態度であり、むしろテクストを物語的に受け取るということのうちに内在する営みのように思われる。私たちがテクストと向き合うときに抱く「この物語の主人公は誰であるか」というその関心こそが、物語の主人公としての物語的自己を要請するのだとは考えられないだろうか。

ポール・リクールによれば「個人または共同体の自己同一性を言うことは、その行為をしたのがだれか、だれがその行為者か、張本人か、の問いに答えることである」という。この記述は、個人(または共同体)という対象の同一性が、ある行為をしたのが誰であるかというもっぱらの関心によって構築されるものであることを示唆している。また、このことに関連して、野矢茂樹『語りえぬものを語る』が非常に示唆的なことを述べている。野矢によると、私たちが固有名をもつ対象について何ごとかを語るとき、前提となるのは対象の存在ではない。持続するのはむしろ「私」を語らせる個体の力であり、その力に応じようとする「私」の個体への関心であるという。どういうことか。ここで、個体とはこれまでの文脈における私性のことだと理解してよい。より正確には、語り手を語らせる力そのものを私性と呼ぶべきなのだろう。(ただし、ここでいう私性とは物語的自己として語り得なかった自己をも含む、より広い概念である。)語らせる力というのは、同著が「実在性(リアリティ)」と呼ぶところのもので、「こちらがあてがった典型的な物語をはみ出していく湧き出し口であり、それを私に差し出して私をさらなる語りへと突き動かしていく力」だという。

この記述が示唆的なのは、ここではむしろ個体への関心のほうがその個体の個体としての存立に先立っている点である。ここで見たような考察が正しいものだとすれば、テクストを物語として受容することが物語的自己を要請するという考え方もそれなりに的を射たものであると評価できるかもしれない。

私性の他者性

村山由佳の小説で印象に残っている一節がある。手元にない本の一節で、定かではないが、だいたい次のようなものだったはずである。 「私は口をつぐんだ。そうしなければ、私の本当の気持ちは薄まって、ついには消えてしまうような気がしたからだ。」

私たちが物語的自己を引き受けるとき、語られなかった部分が抜け落ちて消えてしまう感覚がある。そうした語り得なかった自己をも含むものを私性と呼ぶならば、私たちは永遠に私性に肉薄することはできない。私たちは私性を物語的に受容しようとするが、物語的に受容しようとすることはあるがままの私性を差延してしまう。もっと言えば、私たちは「私」のことを「自分」のこととして物語的に語りだすが、物語的に語りだしたときには、その「私」はこの「自分」にとってすでに他者となっているのである。

かつて前衛的だとされた短歌の一つの目的が作者と作中主体との分離であったとすれば、現代短歌はこのパラダイムをくんでいる。そのうえで作者と作中主体との結びつきを再評価しようとする読みがあわられたことや、物語的自己としての作者を引き受けることを徹底して回避しようとする私性があらわれたことは、自然な流れであるのかもしれない。

二つのタイプの私性のうち、どちらが本当の私性なのかという問いには、おそらくあまり意味がない。私たちに求められるのは、私性の存立構造を緻密に考察したうえで、個々の表現の目的にかなった私性を読み解いていく技術ではないだろうか。