「エモーショナルきりん」であるとはどのようなことか
きりんの首が担う意義
かみしのさんのこれが好きなんだけど、
能あるきりんは首を隠す んなわけねーだろ剥きだして生きていくんだ光の荒野
/上篠かける「エモーショナルきりん大全」
私は空気が読めないオタクとしての側面を持っているので、ぶっちゃけ「きりんは首を隠すとか隠さないとかそもそも考えないのでは?」と思う。だから「んなわけねーだろ」という感情には同意しつつも、「剥きだして生きていくんだ」とかも絶対に考えないでしょうとも思う。だから、言ってしまえばこういうのって虚構なんだけれど、「オマエにきりんの何がわかるんだ!」「きりんの気持ちを勝手に代弁するな!」と怒ってくる人ってたぶんあんまりいない。
2020年はだいたいずっとこういうことを考えていた。私は立場上、自然言語を含め、記号の意味が生じるために意図は不要だと考えている。むしろ、意図しうることの向こう側で結果としてそうなっているようなものの意義については、実際に意図されたことをベースにして論じられるべきではない。だから、きりんの長い首がたまたま隠されていても、剥き出しになっていようとも、私たちはきりんの首について同じように自由に考えることができるし、その意義はとくに変わらない。
しかし、じゃあ表現の意味を扱うためには意図はまったく不要なのかというと、それはそうではない。短歌っぽい言い方をすると「私性」を意図する主体と見なさないことによって失われる語彙がある。それは、その表現が実際に意図された結果なされるものであるがゆえに、「賞賛に値する」とか「非難に値する」といった語彙だ。だから、私たちはきりんが現実に意図する主体であるかどうかによらず「剥きだして生きていくんだ」という言語の意味を理解することができるが、きりんを意図する主体と見なさないかぎり、彼が首を剥き出して生きていくということの意義を評することはできない。
作者と意図
短歌における「作者」の意義について議論するセッションが五月にあった。
短歌における、作者という存在の意義――2020/5/17の「三沢左右と難波優輝とその愉快な中島裕介」に向けて - Togetter
ここでなされていた話について、私は以下のようにコメントした。考えていることは、このときとあまり変わっていない。
作者の意図をどこまで汲むべきかという問題は「詩的な短歌のゆくえ」でふれたけれど、この記事でわたしは、斉藤斉藤のまとめ方でいう作者主義の批評では詩的比喩が伝えようとする相貌に迫れないのではないかという意識から、読者主義的な批評も必要だということをいったhttps://t.co/SRJl2jJpJ4
— 愁訴 (@shinabitanori) May 5, 2020
わたしとしてはそうとしか語りえなかったものに何らかの解釈を与えることは押しなべて翻訳的な営みなのであって、よくわからないものをよくわからないもののままに受け止めるところにはコミュニケーションはないのではないかと考えたい
— 愁訴 (@shinabitanori) May 5, 2020
中島さんの「作者=人間としての特権」みたいなトピックに引きつけていうと、コンピュータは自分が生成する文字列が伝達しうる意図についてメタ的な強い理解をもてないから、読者がその作品の解釈をすることはできるけど、そこにコミュニケーションは生まれないのではというのはある
— 愁訴 (@shinabitanori) May 5, 2020
コミュケーション、表現の解釈としての意図をすり合わせるゲームみたいなものだと思っているので
— 愁訴 (@shinabitanori) May 5, 2020
表現行為の意図
以下は、銭清弘による記事。
芸術作品における嘘、作者の意図と作品解釈、あるいは鑑賞自律主義についての覚書|obakeweb|note
分析美学における芸術作品の解釈のための理論において、作品の背後にあると考えられる嘘や皮肉をどのように扱いうるかは確かに興味深い。その一方で、この記事に見えるように、作品が「芸術的に[artistically]良い」ものであるかの判断は、表現が嘘や皮肉であることによって割り引かれたりするような性質のものではない。だから、そういった話をするかぎりにおいては、現実に作者が意図したことを重視する意図主義的な解釈理論はかえって使い勝手が悪いだけでほとんど無用の長物である。
けれど、「私性の文学」などと呼ばれる短歌を扱う評では、話がそのラインを踏み越えていくことがしばしばある。短歌を取り巻く環境で混線しているのはこのあたりのことだろう。短歌は作者が意図した結果としてその表現が実現していることを所与の事実としてかなり強く前提しているところがあり、その人がそういう内容を言明しているという事実についてコメントすることに躊躇がない。
だから、きりんが首を「剥きだして生きていくんだ」と言うこと、そういう態度で「光の荒野」に佇むことのかっこよさについてあまり身構えずに語ることができるのだが、意図する主体のことを解釈の枠組みの内側におかないということは、こういう話をするための語彙を一度ぜんぶ捨て去ることでもある。それでも解釈はできるし、そういう語彙に訴えなくても「良さ」を語れる作品があることも否定しない。でもそういう話をしていられれば満足なのかというと、少し微妙な感情になる。
現実に意図されたことと意味内容を切り離すというのはつまりそういうことだ。そこで、仮に意味内容の解釈に意図が不要ならば生身の人間としての作者も不要なのではないかというと、それはたぶん表現をもとに語りたいことの内容による。というか、私はやっぱり生身の人間の話をしていきたいと思っている。
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