ゆるく生きる果てに確かな希望なんかない
「ゆるさ」と「覚悟」
「ゆるい就職」は、今の日本だと全然ゆるくない。 - 脱社畜ブログ
こういうエントリがある。「ゆるい就職」というものについて、でもこれはどうなんだろうねという記事だ。
この日本社会において、正規雇用で働くという「レール」を外れて生きるには、相応の「覚悟」が必要になるはずだ。しかし、実際にゆるい就職に惹かれているという人にその「覚悟」は感じられない。ただ「ゆるい」という言葉に惹きつけられているだけなんじゃないか。そんなことを指摘していて、たしかにな、と思った。
計画主義的な未来を持たない人びと
ただ、自分がそういうところがあるタイプだから思うのだけど、こういう人たちって計画主義的な未来を持たないという認知的なクセを持っているのではないかと思う。ふつうの認知的なクセを持っている人なら、「これくらい頑張っておかないと将来はこうなるかもしれない、それは私はイヤだ」というように、自分の将来の可能性をいまの自分に引きつけたうえで、他ならぬ自分のリスクとして認知することができる。一方で「ゆるい」生き方に惹き寄せられてしまうような人は、そういったリスク認知の仕方が麻痺していて、将来の自分に感情的なつながりを持てないのではないだろうか。
そういう人たちに「覚悟が感じられない」ということばが実感をともなって響くことはない。
レールという比喩がなじまない
私たちの世代は、おそらくだが、行き先が決められていることに違和感を覚えて「レール」から逸脱したいのではない 。
「こうしないとこうなる」というリスクの認知は「こうしたらこうなるはず」という計画主義的な未来観に裏打ちされていた。ところが、現代ではさまざまな社会的リスクが全面化し、「こうしたらこうなるはず」という確実性は脅かされている。そこに現れた計画主義的な未来を持たない人びとは、人生がレールのようなものであるという信念をはじめから持っていないのではないか。
泥舟で海図のない海をいく
人生はむしろあてもなく海を行くことに似ている。
そこに目に見える道はない。先達の書き残してくれたという「海図」を頼りに、さだめられた航路を進んでいく。ある船は呉越同舟、またある船は船頭多くして山をめざしている。
だが、実はそれらの船はすべて泥舟なのだ。実際、漕ぎ出したそばからブクブクと沈んでいくさまを多くの人間が目の当たりにしてきた。が、まあ、大半は意に介さなかった。運よく沈まずに目的地まで辿りつけた船も少なからずあったが、それらもやはり泥舟であったことにかわりはない。つまり、船が泥でできていたことは問題ではなかった。この海にはハナから泥舟しか浮かんでいなかったのだから。乗り合わせた船が泥でできていることを嘆いているヒマがあったら、どうにか目的地までたどり着けるよう懸命に努力すべきだし、それが嫌なら船なんか降りたほうがいい。
そんな海上で、気づいたら海に放り出されていたというのが私たちの世代である。わけもなく放り出されていて、わけもわからず、とりあえず泥舟だったものの残骸にひっつかまっている。泥は見る見るとけていく。行くあてはない。べつに行きたいところもないのだが、あてどなくどこかをめざしてみるのも、ただ力なくプカプカ溺れてみるのも、私たちの自由だろう。
それが多分、現代において「ゆるく生きる」ということの正体である。
希望のない海
気づいたら泥舟に乗っていたという人びとには、海図という所与の希望があって、あの代わり映えのない水平線の向こうにも新しい大地があることを信じていられた。(かどうかはホントのところ知らないのだが、少なくとも疑っているヒマはなかっただろう。)
そんな航海をいまも続けてるような立派な泥舟の船員の一部は、私たちを見てヘラヘラ笑ったり、ハラハラ心配したりするのかもしれないが、そういうのは正直どうでもいいと思う。また、私たちのほうでもそういう連中を妬むのは筋違いだ。その手の船員の多い船って、どうせ沈んでしまいそうだし。
ある船はどこかに行き着き、ある船はどこにも行けない。希望を持たないまま投げ出されたこの海では「覚悟」なんて仰々しいものは必要ないんじゃないか。
ただ、行きたいと思える方向があって、欲を言えばそっちへ一緒に行きたいという仲間に出会えたなら。それはとても素晴らしいことだと思うし、まあそうじゃなくても、それはそれでしかたないことなのかなと思う。
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