星空と青空のあいだ――『緑の祠』論
ライトヴァースの「ライト」に関して
私たちの多くは、物心ついたときから、物語に取り囲まれている。一方で、短歌連作に物語的な構造がはじめて導入されたのは、実は八〇年代後半の「ライトヴァース」以降のことだったとされているらしい。
物語とは、基本的に固有名詞を持つ主人公が事件に出会い、行動を起こし、状況の変化を経験するという内容を持つ。小説や叙事詩、悲劇などは物語であり、短歌などの短詩型は普通そうではない。(中路)短歌は、物語を形成するに至らない具体的事実の記述であり、わたし達が没入や同一化できるほどの具体的結部を持たないけれど、私たち自身の経験を受肉させることによって強い実感をもたらすことができる。
(尼ヶ崎:1998)
文語短歌のリアリズムにおいては、もともと、物語は相対的に弱い機能しかもっていなかった。網野(2004)の説明によれば、旧来の短歌的なリアリズムは、すでにそれ以前から「文語韻律の持つ磁力」によって辛うじて支えられているに過ぎないものだったのだが、そうした状況にあって、俵万智などを念頭に置く「ライトヴァース」という語は、「新人類」世代の短歌に特徴的な作品づくりを「口語体」という文体上の特徴をもって一括りにする、ある種の蔑称のように用いられたのだという。
ただし、断っておくが、この網野の文章の論調は総じて非常に恣意的であり、客観的な記述として甚だ説得力に欠ける印象を受ける。たとえば、「新人類」世代がしばしば論拠に乏しい世代論的な批判に晒されたことは事実かもしれないが、それは必ずしも「歌壇」だけがアナクロニズムな体質だったからというのではないだろう。若者論と呼べそうな言説というのは世代を超えて再生産されるのが常であり、小此木啓吾がエリクソンをもとに「モラトリアム人間」という類型を本邦に広めたのが七〇年代の終わりごろだったとされることから、実のところ、それ以降の「若者」はいずれの世代も似たような批判に晒されているのではないだろうか。
「ライトヴァース」や、今日のライトノベルといった表現のなかに見える「ライト」という言い回しは、私たちの日常のなかでキャラクター的なものが前景化し、現実に対する主体の行為者性が希薄化したように見える状況を念頭に置いたものだろう。
図式化を恐れずに言えば、キャラクター小説的な物語においては、任意のキャラクターは「そのような状況ではそのように振る舞うものである」というステレオタイプ的な外部の要請によって行動を起こすものだ。そうしてもたらされる状況の変化というのは、したがって、どこか主体の内面の葛藤から切り離されたような、予定調和的なものにさえ見える。「ライトヴァース」といった言い方における「ライト」という語も、もともとは、そうして個人の物語が〈私〉の外部の要請によって、ひとりでに進行することを所与としているようなリアリズムを指していたのではなかっただろうか。
プロット=ストーリーとしての〈私〉の不在
五島諭『緑の祠』に描かれる主体は、物語上の「プロット」としてそうすることと、「ストーリー」としてそうであることとの差異に敏感で、しばしば両者を峻別しようとする。
「失態を演じる人」の「演じる」のあたりで五月雨が川をなす
いつも陽気に振る舞えばとても内気ではあっても陽気なんだね
海に来れば海の向こうに恋人がいるようにみな海をみている
(p.18, 27, 103)
こうしたステレオタイプ的な人物像(キャラクター)を「演じる」ということは、もちろん、必ずしも特別なことなのではない。実際に、私たちは日常生活のなかでも、多かれ少なかれ何らかのキャラクターを演じているものだろう。しかし、この主体の世界観の背後には、物語の「プロット」を「演じる」ようにそうすることを、あくまでもこの〈私〉の「ストーリー」とは同一視しえないとでもいうような、ある決定的な違和感が兆している。
履歴書の学歴欄を埋めていく春の出来事ばかり重ねて
(p.78)
たしかに、具体的事実の記述を重ねることと「ストーリー」としての物語を紡ぐこととは、何かが異なっているように思われる。事実の記述を「ストーリー」と同一視することのなかには、あるいは履歴書を「春の出来事ばかり重ねて」埋めることにも似た欺瞞が含まれているのかもしれない。
それでも、「プロット」のようなただの記述をあえて「ストーリー」であるかのように引き受けなければならない場面というのも、実際上はよくあるものだろう。だが、そんな場合にもこの主体は、結果的に意味のあることを何も言えていないような、ほとんど異様なまでにフラットな表現を見せることになる。
こないだは祠があったはずなのにないやと座りこむ青葉闇
手のひらにいくつ乗せても楽しいよ茄子のかたちをした醤油差し
夏の本棚にこけしが並んでる 地震が来たら倒れるかもね
(p.39, 23, 26)
彼がこのようなフラットな言い方にこだわるのは、逆説的なことに、彼が生きる「ストーリー」の主導権が彼自身の手元にほとんど握られていないシーンにおいてである。「青葉闇」のなかにあるべきはずだった「祠」の存在の有無は、本当なら彼の意志など介在しない事態のようだし、「茄子のかたちをした醤油差し」を「手のひらにいくつ乗せても楽しい」というのも、具体的にいくつも乗せてみようなどと考える彼の思惑とは無関係なことである。「夏の本棚にこけしが並んでる」などはまさに具体的事実の記述でしかなく、それらが「地震が来たら倒れるかも」という可能性の話だって、やはり彼の意志能力とはまったく関係がない。
この主体は、彼を取り巻く世界のありように触れ、自らがその内部に位置づけられることになる物語について、さまざまな可能性を見出す。
大吉を引けばいいけど引かないと寂しさが尾を曳く、でも引くよ
(p.28)
しかし、それらのありえたかもしれない物語とは、もっぱら彼を取り巻いている世界の側の可能性として記述されるばかりで、当の彼自身にまつわる「ストーリー」からは、どこかズレた地点にしかまなざされない。物語(「プロット」=「ストーリー」)という図式に根本的に疑念を覚えているこの主体の語りは、むしろいつも「プロット」としてのみ進行し、そうして時系列は進んでいっても、小説のような「ストーリー」が進展するようすは見られないまま、話らしい話が記述されない。
買ったけど渡せなかった安産のお守りどこにしまおうかなあ
(p.29)
おそらく普通の感覚の持ち主ならば、ここで「どこにしまおうかなあ」とはならないはずなのである。この主体は、わざわざ自分で渡すために買ったのに渡せなかったものについて、しかし、さもそんなことはこの〈私〉にとってどちらでもよかったこと、まるで富籤の結果と同列のことだったかのように語れてしまう。
こうした認識上の癖を念頭に置きながら、五島の短歌は、「岡井隆が言った意味での、短歌の背後にいるたった一人の〈私〉という構図が成立しない」(東郷:2015)といった評がなされることがある。事実として、五島の短歌に対して、この主体は自分のことについてであっても他人事のようにしか見なさない、「モラトリアム」的な性格の人物なのだといった「若者」像を読み取るのも比較的容易なことかもしれない。
しかし、かといって、こうした世界観が特定の世代の「若者」だけに共通する社会病理であるかのように評したり、その「若者」の発達や成熟にまつわる個人的な課題であるかのように語ったりすることは、ここで彼自身の置かれている状況を不用意に歪めて理解してしまうことにつながるように思う。また、そうでなくとも、『緑の祠』の主体が感じているらしい違和感は、ほかならない彼自身にとって(あるいは私たち自身にとっても)、とても切実な問題のように見受けられるのだ。
物語をそなえた「空間」への違和
『緑の祠』の主体は、キャラクターという存在や、それらが織りなす物語によって秩序づけられた「空間」に違和を感じている。彼のこの違和感は、〈私〉がキャラクターを「演じる」ことに由来する感覚というよりも、それ自体が物語をそなえて存在しているような「空間」のあり方にこそ向けられるものだ。
〈空間〉に〈リゾート〉とルビが打ってある〈空間 〉がほころびて血を吐く
新興住宅地が怖いその家とその家のあいだの一拍が
青空の証人として立たされてなすすべがない 〈別荘地〉、ここは
(p.76, 106, 107)
彼の違和感が噴出する「空間」のひとつは、一見何気ない風景でありながら、そこで何らかの「ストーリー」が演じられるらしいことが強調されている舞台――宅地である。
誤解を恐れずに言えば、この主体の物語観とでも呼ぶべきものはどこかキャラクター小説的なそれであり、キャラクターという存在を個人の内面よりむしろ個人を取り巻く外的な環境に規定されるものとして捉えている。つまり、彼にとってのキャラクター概念というのは、「そのような状況ではそのように振る舞うものである」というステレオタイプ的な規範認識とともに、まさにそのようなキャラクター(であること)が実際に演じられる、具体的な場面設定と結びつけられているのである。
先ほど挙げた作品で、この主体が「新興住宅地が怖い」と言ってみたり、「別荘地」になすすべもなく投げ出されたように立ち尽くしたりしているのは、そうした「空間」と結びつけられるべき適切なキャラクターを彼が内面化していないがために、彼にとってはそこに居場所がないような、よそよそしさを感じさせる場所だからだろう。
このような世界観のもとにあって、この主体にとっての「空間」とは(彼にとってはどうやら不本意なことながらも)、キャラクターを媒介項としつつ、それ自体がそこで演じられるに相応しい物語と結びついている舞台装置として、いわばあらかじめ歪められたかたちで存在している。さらに指摘すれば、先の三首目の「青空の証人として」という表現に見える「青空」というのは、おそらくそうした物語とは結びついていないかたちで存在している、フラットな〈空そのもの〉とでも呼べそうな観念的な空を指している。すなわち、翻っては、この世界観のもとでは、あらかじめ物語によって秩序づけられた「空間」としての空――「星空」が、「青空」と対置されるものとしてやはり重要な意味を帯びているのである。
星空と青空のあいだ
この主体はしばしば「宇宙」とか「星空」といったところを意味ありげに見つめている。
天体を望遠鏡でたぐり寄せ見るというまだ小さな不安
水星をのぞむ明け方 コンビニのFAXに「故障中」の張り紙
(p.62, 68)
ところで、『緑の祠』に描かれる夜の気配は、典型的には、夜更けというより「明け方」や「薄明」あるいは「夕暮れ」といった、〈昼〉の時間帯と〈夜〉の時間帯との境であることが多い。
昼と夜のあいだに細い雲は流れ子供と兵士がどこかで出会う
(p.63)
この〈昼〉と〈夜〉とのコントラストは、『緑の祠』においては〈子供〉と〈兵士〉という対照に関連している。歌集の全体を通じてたびたび登場する〈兵士〉という存在は、どんな時であっても、「兵士」という与えられた役割(キャラクター)を演じたまま生きることができる大人たちの謂いである。これに対して、やはり歌集を通じてノスタルジックにまなざされる〈子供〉という存在は、そうした大人たちが演じる物語(「プロット」=「ストーリー」)という秩序に取り込まれる前段階の存在であるがゆえに、「星空」をどこか遠い世界であるかのように見上げていた。
星空は見上げるためにあるもので 小さなころからある泣きぼくろ
いくつもの異なる星座を組み入れて一人のときに泣いている〈i〉
(p.93, 50)
その一方で、現在のこの主体にまなざされる「星空」というのは、実はすでに〈子供〉が見上げるフラットな「青空」のようなものではなく、「星座」というキャラクターたちの物語に分譲され、あらかじめ秩序づけられた「空間」として存在している。「〈i〉をめぐって」という連作タイトルにもなっている〈i〉という存在は、数多の「星座」(キャラクター)を自分のなかに「組み入れ」ることで大人を演じていても、どこかで一人前の〈兵士〉にはなりきれずにいるような〈私〉のことにほかならない。
どこまでも展けるような夏の日は兵士を必要としていない
(p.56)
ノスタルジックな夏の日に象徴される「青空」や、〈子供〉が「蝶」を追いかけて遊ぶような「草原」のあるシーンにおいては、キャラクターで武装した〈兵士〉の出る幕はない。もちろん、〈昼〉の世界としての「青空」と〈夜〉の世界としての「星空」との境界というのは本当はシームレスなものであるはずなのだが、彼の感覚の上では、二つの世界のあいだには明らかな断絶が横たわっている。
二十一で兵士になった二十一からの宇宙を待っていたから
慣れないね、慣れないねえと 溜息は宇宙テレビにたけしを映す
(p.60, 113)
『緑の祠』の帯文は、五島の歌群を評して「冷徹な青春歌」だという。たしかに、その認識は間違っていない。言ってしまえば、同書に収められた短歌とは、〈昼〉の世界から〈夜〉の世界へと徐々に順応していく過渡期にあって、二つの世界のあいだを揺れ動く「若者」の心理を写しとったそれである。しかし、物語(「プロット」=「ストーリー」)という図式を未だ踏み越えられずにいる彼自身の物語は、歌集を最後まで読み進めても、話らしい話としては結実しない。この歌集は、結局最後まで、〈昼〉と〈夜〉とが断絶してしまっている世界から抜け出すための出口を「ストーリー」のなかに位置づけて描かないのである。
かくして、「星空」と「青空」との断絶にまつわるこの問題は、彼の課題から私たち自身の課題へとすり替わる。では、この断絶を埋めるために必要だった鍵とはいったい何だったのだろう。それは、彼を(あるいは私たちを)取り巻く世界のどこかにすでに示されていた何かだったのだろうか。
その何かはたしかに野菜ジュースや鶏肉のかたちをしているかもしれない
結論から言えば、この課題にここで姿かたちがある明確な答えを与えることはできない。あるいは、端的に言うなら、たとえば次の短歌がその答えのような何かである。
書き終わらないレポートはそれだけで空についての考察である
(p.99)
ここで言われているのは、ようするに「それでもこの『断絶』に慣れるしかないんだ」とか、「だから『物語』を語り続けるしかないんだ」とかいう類の話なのだろう。身も蓋もないというか、まあ、それはその通りなのだろうけれど、しかし、そんな「俺たちの闘いはまだ終わらない!」「次回作にご期待ください!」みたいなことを言われても、それはそれで困るだろうと思うのである。
実際のところ、生身の私たちの「ストーリー」には「次回作」なんてものはないはずだろうし、私たちの人生というのはおそらくこれ一回きりで、少年漫画の打ち切りのように「けり」を付けてしまって、それでひとまず終わりということにできたりするようなものではない――そもそも、私たちの生きる口語的リアリズムには(良くも悪くも)「けり」を付けるなんて選択肢ははじめから用意されていなかったのだから!
だから、最後に少しだけ『緑の祠』から離れた話をしよう。宇野常寛が、川上弘美『七夜物語』に関連して書いている文章(宇野:2013)がある。『七夜物語』は、昭和三十三年生まれである川上がまだ子供だったころ、一九七〇年代が舞台に設定された、子供向けのファンタジー小説だ。この小説には、小学四年生の「さよ」と「仄田くん」という二人の子供が登場し、「子どもだけが見ることのできる世界で、子どもだけが旅をすることができる世界」だという「夜の世界」を脅かしている「力」に立ち向かうべく、二人が冒険をするようすが描かれる。
そう。ばらばら。いいところも悪いところもひっくるめて一筋縄ではいかないはずのぼくたちを、ばらばらにこわしてきれいにならそうとする、そういう力が、この夜の世界には働いているんだ
(川上弘美『七夜物語』による。宇野:2013から孫引き)
「夜の世界」を変えようとしているこの「力」は、「さよ」と「仄田くん」が生まれる少し前、ちょうど一九七〇年前後に発生したらしいのだが、「夜の世界」は「ぼくたちがいる元の世界とどこかでつながって」いたために、やがて私たちのいる元の世界からの影響が「夜の世界」をも「奇妙ないびつなもの」に変えてしまったのだという。
宇野はこの物語の結末について、二人の子供たちが「ちびエンピツ」という鉛筆のキャラクターに生を見出すこと、その生が踏みにじられることに対する「静かな怒り」が「そういう力」を退けることになると要約する。『七夜物語』について多くを語ることは本文の趣旨を外れるため、ここではこれ以上立ち入らないが、この『七夜物語』がファンタジー小説として語られているということは、私には、何かこの状況を説明するうえでの強烈なヒントのように思われてならない。
『緑の祠』で彼がまなざしていた「星空」――〈夜〉の世界とは、八〇年代後半の「ライトヴァース」よりもさらにこちら側の世界、すなわち、七〇年代の時点ですでにファンタジー小説のような結末にはいたらなかった、いわばこの現実そのままの「夜の世界」なのではないだろうか。私たちのこの世界には、つまり、「いいところも悪いところもひっくるめて一筋縄ではいかないはずのぼくたちを、ばらばらにこわしてきれいにならそうとする」、そういう「力」がおそらくほとんどはじめから所与のものとして働いている。『緑の祠』でノスタルジックに描かれていた「青空」というのは、そうしてあらかじめ「ライト」なリアリズムに歪められてしまうより以前の「夜の世界」(「子どもだけが見ることのできる世界で、子どもだけが旅をすることができる世界」)を昼夜逆転させた、本来の〈空そのもの〉の姿なのではないだろうか。
語るしかないミキサーの野菜ジュースのこと解凍される鶏肉のこと
(p.12)
私たちが〈夜〉の世界のリアリズムのうちに留まろうとするにしても、〈昼〉の世界のリアリズムのうちに留まろうとするにしても、二つの世界の断絶が埋められるわけではない。二つの世界を正しく行き来する鍵となるのは、キャラクターのような実体から乖離した存在の仕方のなかにでも、たしかな具体的な生を見出していく私たち一人一人の想像力だ。だからこそ、この世界の出口は、あるいは「ミキサーの野菜ジュース」のかたちをしているかもしれないし、あるいは「解凍される鶏肉」の姿をしているかもしれない。それらは、まさに想像力で補われるものであるがゆえに、結局のところ蓋を開けてみなければ、私たちにとってのそれが何かはわからないものなのではないのだろうか。
……などと、私は思うのだが、もちろん、こんなぐちゃぐちゃとした話は、たかが深読みに過ぎないと言われればそれまでの話だ。
それでも、私はこういう深読みをするということにささやかな希望を託していたい。こういう読みの可能性は、あの青葉闇のなかにあるべきはずである「祠」のように、きっと、いつでもたしかにそこにあるはずのものだろうと思うから。
参考文献
五島の短歌の引用はいずれも五島諭『緑の祠』(書肆侃侃房、2013)による。
- 尼ヶ崎彬(1998)「感嘆と詠嘆」 編=佐々木幸網『短歌と日本人Ⅱ 日本的感性と短歌』 岩波書店 41-71
- 網野博(2004)「「ライトヴァース」再考 : 歌集『サラダ記念日』に代表される口語体短歌を巡っての考察」 兵庫教育大学近代文学雑志 (15) 1-19 http://hdl.handle.net/10132/468
- 宇野常寛(2013)「僕たちは「夜の世界」を生きている」 宇野常寛『原子爆弾とジョーカーなき世界』 メディアファクトリー 39-49
- 東郷雄二(2015)「第163回 五島諭『緑の祠』 – 橄欖追放」 http://petalismos.net/tanka/kanran/kanran163.html