倍速再生が〈わるい〉ことだとして、それは私たちが悪びれるべきことなのか?
この記事について
インターネットでなにかを主張するときにはこういうのをつけなきゃダメだな、と思った。 pic.twitter.com/jFsE90ga6e
— sen kiyohiro (@obakeweb) March 31, 2021
この議論における「意図とか真正性とか失礼とかどうでもいいだろ!」の筋をやってみる記事。議論の中身は以下の記事などからたどってください。なお、アイキャッチと本文の内容とはまったく関係ありません。
映画を倍速で見ることのなにがわるいのか|obakeweb|note
私たちの鑑賞体験は誰のものなのか
先の記事では、映画などを「倍速で見ること」が「わるい」こととして問題とされる論拠を整理しつつ、それでも映像作品を倍速で鑑賞してかまわないような余地を確保することを試みている。このとき、「映画の見方なんて人それぞれであり、どんな仕方で見ようとも、そのことに関して他人から『わるい』と言われる筋合いはない」といった筋からの倍速視聴肯定は「人それぞれ論法」と呼ばれ、あらかじめ排除されている。
「人それぞれ論法」は、権利的な自由に基づいた倍速鑑賞が依然としてなんらかの「わるさ」を伴う可能性をまったく排除しない
そこで、先の記事は「『倍速鑑賞は作者の意図を無視する行為である』という否定派の主張を受け入れつつ、そこから『真正でないかつまたは失礼である』という結論を回避する」という筋道を辿っている。落としどころとしては、倍速での鑑賞などの「逸脱的」鑑賞体験であっても、本来あるべきはずの鑑賞体験へと「回復可能(recoverable)」であるかぎりにおいて、そうした鑑賞が「真正でないかつまたは失礼である」という批判は必ずしもあたらないとしている。
私の結論ありきなモチベーションとして、べつに倍速で見たいなら好きにすればよいのではというところに着地したい思惑があるため、この論の方向性には一定程度うなずける。しかし、不満もある。このアプローチの鍵となっている鑑賞体験の「回復可能性」というアイデアからは、〈本来の鑑賞体験〉とでも呼ばれうるものや、その基盤となるべき何かがあらかじめ用意されているはずだという信念の気配が感じられる点だ。この何かとはようするにきっと作者の「意図」と呼ばれるやつなのだが、この種の表現や行為の意味解釈を扱う議論において表現行為をおこなう当の制作者の「意図」を持ち出すと大体おかしなことになって論が破綻することはよく知られている。このあたりの懸念については次の記事でも端的に指摘されている。
映像作品の倍速視聴は何を取りこぼすのか、銭さんへのリプライ - 昆虫亀
また、とりわけ作者の実際的な意図を尊重する立場をとる場合、鑑賞者の想像のもとで回復された〈本来の鑑賞体験〉が作者が意図したような「真正な」鑑賞体験かはわからないわけで、回復可能だからといってただちに「真正でないかつまたは失礼である」という批判を免れるわけではない。もっといえば、鑑賞者の常識的な判断に照らしてごくふつうに作品を鑑賞したのだとしても、それが本当に作者が意図したような「真正な」鑑賞体験に相当するのかはやはり自明でない。
「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」ROUND2 - obakeweb
これらの議論は、論者の立場上、作品の意義(芸術的価値)を不当に取りこぼす・損なうといった事態について大きな関心が払われており、だからこそ「真正でないかつまたは失礼である」という批判にまともに付きあうかたちで、こうした批判を回避するための道筋を探るものだった。
だが、ぶっちゃけた話、作者が前もって「意図」したような「真正な」鑑賞体験であるということは、そこから生まれる批評が正当なものであることをサポートしない。くわえて、現実世界で作品を鑑賞する際のさまざまな条件について、何から何までなら当たり前に統制しうる(したがって統制されるべき)ものと考えるかは、社会文化的な状況や個人の認知特性などによってかなりのムラがあると考えられる。そのことがかえって作者が前もって「意図」した内容を飛び越えるような批評が生まれてくる助けになっている側面もあるはずなのだが、そういった「作者の想像以上によくできている批評」だって、必ずしも「真正な」ものではないくせに、それらはとくに失礼と見なされず、正当なものとしてまかり通っていることも少なくない。
何かの作品を鑑賞するという文脈にかぎらず、「意図とか真正性とか失礼とかどうでもいいだろ!」とだけ言って済ましておくべき場面というのは、おそらく現実世界で実際にありうる。一方で、そういったものがどうでもよくはない場面だってやはり社会のなかに当たり前にあるべきはずのものに違いない。したがって、私たちがここで真にやらなければならないのは、そのどちらの場面についてでも、状況に応じて当たり前に生じうるような余地を確保しておくことにほかならない。
このような枠組みを組み立てるためには、前提として「人それぞれ論法」がむしろ当然に通用することを認めてしまうほうが話が簡単である。そのうえで、たとえば映画を倍速で見ることの「わるさ」のような概念が適切に機能するように、「人それぞれ論法」を適用できる範囲を制限すればよい。
では、私たちの鑑賞体験が正当であるとか不当であるとかいうことは、いつどのようにして問題になるのだろうか。また、私たちの鑑賞体験が何らかの観点から不当なものであることが明らかになったとして、私たちがそうした非難とまともに向かいあうためには、はたして、どのような観点が必要なのだろうか。
引用符の意味について考えること
ここでいったんべつの話をしたい。
アサヒスーパードライの"DRY"に付いている引用符の意味――千葉雅也氏の問題提起を受けて|山口尚|note
この山口による記事は「アサヒスーパードライの”DRY”に付いている引用符の意味」について考察しているものだ。この問いはもともと千葉雅也による以下のツイートに由来する。
「アサヒスーパードライの"DRY"に付いている引用符は何を意味するか。2000字以内で論じなさい。」人文系なら何かしら書けてほしい。
— 千葉雅也『ツイッター哲学』発売 (@masayachiba) June 29, 2020
もっとも、山口も記事のなかで断っているように「これは一種の大喜利」であり、「アサヒスーパードライの”DRY”に付いている引用符」に実際のところどのような狙いが託されていたかはここで大した関心事ではない。
山口による応答はシンプルにまとめられたもので、確かに鮮やかなものに違いない。むしろ「2,000字以内」で論じよという制限を考慮するならば分量的にも内容的にも適切であり、十分納得できるものである。その一方で、山口によるこの応答の展開は全体的に足早であり、先の問いを真っ向からじっくり扱うものとしてはやや手狭そうな印象を受ける。とりわけ(少なくとも私にとっては)不満な点として、”DRY”に引用符を付ける行為がこのロゴをつくったデザイナーにとって意味のあるおこないとして確かに「意図」されたものだったということを本当に「充足自由律」が保証してくれるのか、仮に保証してくれるとしてそれはいったいなぜなのかがよくわからない点があげられる。
もちろん、このことがただちに山口の論の瑕疵にあたるというのではない。むしろこの人は自由意志などを扱う哲学を専門としているので、意図と行為の関係についての議論にも詳しいだろうと思われる。だからおそらくあえて強調しなかったのだろう事実として、私たちはかなりの程度、「こういう狙いのもとにこうしよう」などと実際的に意図しなくても何がしかの行為をおこなうことができる。そしてそれは「”DRY”に引用符を付ける」のような記号を用いた表現行為であっても同様だ。
問題の引用符に意味などない。ロゴを作ったひとが何となくつけただけ。けっきょく、問題の引用符はたまたまのものであり、別に引用符がなくても何ら違いはなかった
山口は論の冒頭で、このような「懐疑論」をとりあえず退けるところからスタートしている。そう前提しなければ話が進まないからだ。だから「何物モ理由ナシニハ生ジナイ(nihil fit sine ratione)。かくしてDRYの引用符にも何かしらの意味がなければならない」という言い方をする。実際、他者の行為に対するとき、私たちはこうした期待をほとんど必ず抱いているものだろう。
しかし、結果としてなされた表現について、それと釣り合うような意図がその隅々にまであらかじめ行き届いているべきはずだという考え方は、はっきり言って非常に使い勝手が悪い。この近辺の議論はテクニカルなものであるため、ここで詳細に検討することはしないが、さしあたり指摘しておくべきこととして、私たちはどうやら何らかの表現行為をするに際して、それと釣り合うようなきめ細やかな意図をいちいち前もって用意していたりするのではない。
それだからこそ、たとえば「DRYの左側についた引用符が上下逆さになっている」ことについて、そのもっともらしい理由を考えることも(あるいは考えないことも)できるし、デザイナー当人の立場から「さすがにそれは深読みが過ぎるのでは」と主張することもできる(また、仮にそう思ったとして、それをいちいち指摘するかも含めて自由である)。
というより、そういったことができる余地を残しておかなければ、ある表現からもっともらしい解釈を引き出すことがたまたま可能であるという事実をもって、表現者がそれを実際に意図していたことにさせられてしまう。一般的な感覚からして、それではちょっと困るだろう。たまたま目に留まった表現特徴についてあれこれその意味を考えるのは解釈者の自由だし、そのような解釈の余地があった事実は揺るがないが、それが本当に意図したところのものだったかを最終的に決めるのは当の表現者であるべきはずだ。
もちろん、ふつうに誰かが表現行為をおこない、べつの誰かがその意味を解釈し、評価するという実践のなかで、それが事実として意図されたものだったかが重要になる場面はそこそこ限定的だ。また、たとえ意図したところのものでないにしても、それでもその表現行為が何らかの「わるさ」をしていると判断可能なケースだって当然ながら起こりうるべきはずであることからも、それが実際的に事実として意図された(あるいはされなかった)ものかどうかは表現行為の非難可能性ととりあえず無関係なものだと考えるのが穏当だろう。
しかし、そうであれば、「意図とか真正性とか失礼とかどうでもいいだろ!」というスタンスでいると、どのような場合に困ったことになるだろうか。
ひとつの回答として、それは、意図された(あるいはされなかった)結果としてそういう行為がなされたという(必ずしも事実ならざる)事実認識に存する語彙がほとんど語れないものとなる点においてである。賞賛に値する(praiseworthy)、非難に値する(blameworthy)、あるいは、だから他ならない行為者こそがそのしでかしたことの内容について責任を負うべきはずだ、などなど。逆に、こういったところにまで踏みこまないならば、他者の行為を評するにあたって、わざわざその人物の「意図」を持ち出すメリットはない。つまり、たとえば、ただ単に作品を鑑賞してそれが自分にとって好みだったかを語りたいような場合には、「意図とか真正性とか失礼とかどうでもいいだろ!」というのはたぶんその通りである。
「人それぞれ論法」の射程について
私たちの鑑賞体験が正当であるとか不当であるとかいった観点から評価されうるのは、それ自体がある種のコミュニケーション行為と見なされる場面においてだろう。鑑賞行為の内容の適切性が問題となるのは、鑑賞体験がすでに鑑賞者個人だけのものではなく、実際にコミュニケーションに関わる者たちのあいだにあるケースである。すなわち、私たちが鑑賞行為に際してあくまで「わるさ」に走らない誠実な批評家であることを志すかぎりにおいては、鑑賞者個人だけにとって都合がよければそれでよいとする「人それぞれ論法」を適用することは慎まなければならない。
一方で、芸術作品に対するとき、私たちは、いついかなる場合でも誠実な批評家でなければならないということはない。私たちの鑑賞体験というのは、必ずしも、作品を介してその制作者の意図なる心づもりを正確に探ることを目的としたコミュニケーション行為であるとはかぎらない。思うに、ここで争点になっている〈本来の鑑賞体験〉のありようとは、鑑賞行為の目的によって相対的なものである。そして、鑑賞行為はしばしば鑑賞者の個人的な目的のみをかなえるために行われるものであることから、作品を鑑賞するに際して作者の意図をつねに尊重しなければならない究極的な理由は、実はない。
もちろん、この見解は、「映画の見方なんて人それぞれであり、どんな仕方で見ようとも、そのことに関して他人から『わるい』と言われる筋合いはない」という主張に全面的にコミットするものではない。作者の意図を逸脱している鑑賞体験はやはり〈本来の鑑賞体験〉ではないし、それではダメだと批判することが正当な場面は現実にありえる。ここでの関心はむしろ、他者をしてそれを「わるい」と言わしめるに値する鑑賞体験については依然として「わるい」ものとして正しく非難できる余地を残しつつ、それでも鑑賞者の個人的な目的のみをかなえるような鑑賞行為だって、同様になされることが認められるべきだろうということにつきる。
他者のどのような鑑賞体験についても、それはなんかおかしいんじゃねーのと感じたり、だからやっぱり「わるい」鑑賞体験だろうと見なして実際に非難したりすることは、その人がしたがう批評観に応じて自由におこなうのでかまわない。このような前提を認めたうえで、そういった非難を真摯に受けとめるか、そもそもまともに取りあうに値しないと考えるかも、やはり個人の批評観の命じる責任によるところである。知ったこっちゃないと思うのなら無視すればよいし、あくまでも誠実な批評家であろうと考えるのならば、適宜反省すればよい。
そもそも、記号によって媒介されるコミュニケーションの目的とは、記号の生産者と消費者とのあいだであらかじめ共有されている、誰の目にも明らかな共通の信念のようなものなのではない。コミュニケーションの本来の目的は、個々の実践のなかでしか試すことができず、そうしたコミュニケーションがあるべき目的から外れたことは、実践が失敗した事実があってから、つねに事後的にしか確認しえない。むしろ(おそらくはそれだからこそ)、私たちは同一の作品に対してでも異なる感想を抱きうるのであって、そもそも経験される鑑賞体験は違っていて当たり前であるという事実を前提しないならば、同一の作品について互いの批評(評価)を語りあうという実践のもつ意義だって霧散してしまうのではないだろうか。
冒頭で紹介した銭の記事は、映画を倍速で視聴することに対する「人それぞれ論法」について、次のように述べていた。
「人それぞれ論法」は、権利的な自由に基づいた倍速鑑賞が依然としてなんらかの「わるさ」を伴う可能性をまったく排除しない
しかし、ここでいう「わるさ」ということをまともに取りあうに値するものと見なすためには、私たちの鑑賞体験が「作品を介してその制作者の意図なる心づもりを正確に探ることを目的としたコミュニケーション行為」であるという前提を共有していなければならない。そのかぎりにおいてこの指摘はもっともなものに違いないが、同じ前提を共有していない(鑑賞体験ということの目的を異にしている)他者にとっては、この指摘はナンセンスなものになるだろう。
言うまでもないことだろうが、こうした見解に対して、作者の意図を重視しない鑑賞体験はやはり〈本来の鑑賞体験〉とはいえないとするような反論は、ただの用語上の問題であり、意味をなさない。そうした論戦になる場合、両者のあいだでは、批評や鑑賞体験といった語をもって念頭においている実践の内実がすでに異なっている点に注意しなければならないだろう。すなわち、ある批評観に照らして、仮に倍速鑑賞がなんらかの「わるさ」を伴うのだとしても、あくまでその「わるさ」について問題視しないような批評観をもつ他者にとって、それは倍速鑑賞をやめるべきことをサポートする争点にはなりえない。